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長崎の街を歩く/後藤杏

長崎の街を歩く

後藤杏

長崎に住んで3年になる。長崎は海と山に囲まれた美しい街だ。坂を少し登れば夜景が一望できるし、海も近い。最近は大型のクルーズ船が停まるようになり、街は観光客で溢れている。10月には諏訪神社の秋季大祭・長崎くんちがあり、市の中心部を歩くと踊町の稽古風景に出くわす。私は、この街を歩くことが好きだ。市内はコンパクトで歩きながらどこにでもいける。最近は夜の散歩にハマっていて、とにかく色々な場所を歩いている。 

その時にふと考えることがある。それは79年前の8月9日のこと。この長崎の街には、原子爆弾が投下され、多くの人が亡くなり、傷ついた。普段、被爆体験を聞いたり、調べたりすることが多い。そのため、街を歩いているとその人たちのことが頭によぎるのである。  

夕暮れ時、長崎港から稲佐山を望む

最近、浦上駅の近くにある自宅から長崎大学の文教キャンパスまで歩いてみることにした。長崎大学には、もともと三菱長崎兵器製作所大橋工場があり、学徒勤労令や女子挺身勤労令などによって動員された多くの若者たちが航空機用魚雷の生産に従事していた。長崎で生産された魚雷は、真珠湾攻撃で使われたという。1945年8月9日、爆心地から北1.3キロに位置する大橋工場は、原爆により壊滅的な被害を受け、従業員の多くが犠牲になった。巨大な工場だったが、遺構は残っておらず当時の面影は全くない。ただ、工場の標柱が唯一残っていると聞いていたため、実物を見に行ってみることにした。

自宅から長崎大学まで片道約2キロほど。国道沿いの道をまっすぐ歩けば大学に辿り着く。音楽を聞きながら、夜の人気のない平和公園を通って大学を目指した。日曜の夜だったが、大学の近くまでくると学生の姿がチラホラと見えるようになる。自分の学生時代を思い出しながら標柱を探す。標柱は、以前バスに乗っていた時にチラッと見た事があったので、その時の記憶を辿るが、なかなか見つからない。一度歩いた場所を戻って反対の道を辿り、なんとか見つけることができた。標柱を見つけて興奮しているのは自分だけで道行く人は誰一人と目を向けていない。学生の多くも工場の名残がこの場所にあることは知らないのではないか。それくらいひっそりとした場所に立っていた。

夜の長崎大学
大橋工場の標柱

苦労しながら標柱を探している時、原爆症で亡くなったある女性の先生を思い出した。その先生は、大橋工場に動員されていた女学生たちの監督を務めていた。芥川賞作家、林京子の『やすらかに今はねむり給え』にも登場する。8月9日、彼女は外で公務があったため、工場には出勤せず、爆心地から離れた出島周辺の電停で被爆した。しかし、教師として強い責任観を持つ彼女は、燃え盛る炎のなか必死の思いで大橋工場に辿り着き、夜通しで負傷した生徒の看護にあたった。監督の先生3人のうち唯一生き残った彼女は、「最後のはたすべき勤め」が残されているような気がしたため、生徒の遺体収容や安否確認のため、市内外を駆け回ったという。彼女のノートには、安否が確認できた生徒の名前が鉛筆で走り書きされており、もう一冊のノートに321名の生徒の「健在」、「負傷」、「死亡」の状態や収容先の病院名などが綺麗にまとめられていた。

321名。数字で書くことはたやすいが、これほど多くの生徒を探すのはどんなに大変だっただろう。出島で被爆した彼女は、どのような思いで工場に向ったのだろうか。工場に近づくにつれて押し寄せる不安、焦り、絶望…。出島から大橋工場まではそれなりに距離もある。加えて巨大な工場だ。そう簡単に生徒も見つかるわけではない。身体的・精神的にもかなりきつかったのではないだろうか。「生き地獄」といわれたあの日の光景や被爆者の苦しみは、当時を体験した者にしかわからないかもしれない。しかし、全壊した大橋工場で必死に教え子を探す彼女の姿が、夜の長崎大学で目に浮かんだ。

原爆が投下されてから今年で79年。被爆者の平均年齢は85歳に達し、当時を知る人はどんどん減っていく。しかし、長崎の街には、至る所に8月9日の記憶がひっそりと佇んでいる。今、自分が立っているこの場所は、多くの人が苦しみ、悶えながら死んでいった場所かもしれない。今、何気なく歩いているこの道は、家族や知人を探しにきた人たちが不安を抱えながら歩いた道かもしれない。原爆資料館で展示を見たり、被爆体験講話を聞いたりと、被爆の実相にアプローチする方法は色々あるが、当時のことを意識しながら街を歩く人はどれほどいるだろうか。長崎を訪れる機会があったら是非、あの日、確かにそこにいた人たちに思いを馳せながら街を歩いてみてほしい。


後藤杏(ごとう・きょう)

『戦争のかけらを集めて』担当章:
なぜ憲兵の体験や記憶は忘却されたか―未発に終わった全国憲友会連合会の「引き継ぎ」から


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