陸軍士官学校の痕跡を探して/塚田修一
陸軍士官学校の痕跡を探して
塚田修一
私が『戦争のかけらを集めて』で調べたのは、陸軍士官学校出身の中條高徳という人物についてであった。本リレーエッセイ企画で何を書こうか考えた際、職場(相模女子大学)からそう遠くない、陸軍士官学校の跡地を訪れ、中條がかつて見たかもしれない陸士の痕跡を探すことを思いついた。なぜ「跡地」「痕跡」なのかといえば、周知の通り、陸軍士官学校は戦後米軍に接収され、キャンプ座間となっているからである。
さて、陸軍通信学校の跡地に立つ相模女子大学からは、県道51号(行幸道路)でキャンプ座間(かつての陸士)まで繋がっている。一瞬、歩いてみようと思ったのだが、今日は2024年8月8日、酷暑である。歩くのは早々に断念し、小田急線で相模大野駅から相武台前駅まで移動し、その駅前をスタート地点とした。駅名からも分かる通り、この駅は相武台、すなわち陸軍士官学校のための駅である。若き日の中條もこの駅に降り立ち、陸士の門をくぐったはずである。
――ただし、どうやら中條がこの相武台に滞在したのは僅か2日程度だったと思われる。『陸軍士官学校第六十期生史:帝国陸軍最後の士官候補生の記』によれば、中條ら陸士六十期の地上兵科士官候補生は、1945年7月29日に予科を卒業し、19時頃に相武台に到着、翌30日に入校式が行われたが、31日(または8月1日との記述もある)には、歩兵(中條は歩兵第4中隊第四区隊であった)は北軽井沢の浅間廠舎へ向かい、そこで敗戦を迎えることになった。
駅前からキャンプ座間へ向かう。すでに分かっていたことだが、キャンプ座間の中に入ることは出来ない。ゲートには厳重な警備体制が敷かれている。原武史によると内部には陸士時代の遺構が幾つも残されているそうだが(『地形の思想史』)、それらを見ることは難しい。仕方ないので、キャンプ座間の外から陸士の痕跡を探すことにする。
ちょうどキャンプ座間を貫くように、恐らくは陸軍士官学校時代からあったと思われる隧道(新戸隧道)がある(図1)。5年ほど前までは、鬱蒼とした生活道路であり、陸士の頃の面影を色濃く残していたが、2020年頃に拡張、舗装され、ただの無機質な道路になってしまった。ありがちな落書きやグラフィティの類が一切無いのは、米軍施設の地下ゆえに、厳しく取り締まっているからではないか(図2)。
この隧道を抜けると、このキャンプ座間の敷地が終わり、坂を下っていくことになる。陸士が陣取ったのは、相模川の河岸段丘の上なのである。こうして、外から陸士の痕跡を見つける試みは徒労に終わるかに思われた。
だが、果たしてそれは、座間神社の裏手、座間公園の片隅にあった。座間神社と座間公園は、キャンプ座間のフェンスと接している。
そこにあるのが陸士時代の「軍馬功労碑」である(図3)。昭和14年(1939年)に建立されたもので、揮毫は当時の陸士校長であった山室宗武中将による。もともとこの場所にあったのか、それとも移築されたのは定かではないが、キャンプ座間の外にある紛れもない陸士の痕跡である。
短い滞在の間に中條がこれを目にしたかどうかは分からない。また、戦後もこの碑の存在を知っていた可能性も低そうである。
――だが、もし生前の中條がこの碑の存在を知ったならば、健脚の中條のこと(アサヒビールの重役時代、居を構えた市ヶ谷から靖国神社まで毎朝ジョギングをしていたという)、神社の急な石段をスイスイ登って、碑の前で往時に思いを馳せたのではないか。そんな想像をしながら、座間公園から丹沢・大山を眺めた。この眺望は、きっと中條も目にしたに違いない。
塚田修一(つかだ・しゅういち)
『戦争のかけらを集めて』担当章
・陸軍士官学校からエリートビジネスマンへ――ある六十期生の「陸士経験」と戦後