不死王曲(3)
〈苔鮃ノ午睡〉の態で深緑の丘陵が長く寝そべる。山裾と街道の線に沿って鏤めた甍は珊瑚屑で、田地は焦茶の梅海星。〈苔鮃〉の両眼あたり、白煙が倒立した鋭角の三角錐になって突き立つ。〈静歌〉に〈陸地ニ刺青ヲ施シタ〉とあるが枯野、沼沢、草原、森林、河川、砂漠、山岳といった自然の造形と四季に色彩容態を変化させていくその運命を刻み込んだ神々の手を敬虔な古代人はこのように幻視していたのだろうか。日輪を戴いて逆光のなか聳えていたこの山(いまや敞瑠坐山脈に連なる雄爺峰通称南山の辺りであると分かる)、冬の名残を留めて千切れた雲は布団の古棉、雪も煙草の灰、一面皆荒涼とした灰色だった。それがこちらから逆方向に眺めると澄明な日の光に驚いた。草木の息吹に人の世界が霞んでいる。濡れていた。なにもかも濃く、目のなかで〈ゴロゴロスル〉程粒が立って大きい。「なんだ。あの尖塔は泥臾等だろう。随分歩いたと思っていたが全然じゃないか」耶焉が来ていた。私は半身になって露台の凸型に出っ張った部分を譲った。欄干には緑青が浮いていたが、構わず両順手で握り締めて身を乗り出す。耶焉、「参ったな」「ええ」「しばらくここで休養するつもりだったが」「追手が」「もう一服したら出るか。まあいい。方角は分かった」「階段の踊り場にいたのは乳母ですかね」「なんだ、それは」「惚けなくてもいい。あなた以外に殺した筈がないんだから」「ああ。〈乳母〉か。鳥の卯鷭かと思った。いきなりなにを言い出すのかと」「なにをしたんです。〈別ニ〉ですか」「だって、おまえ」「はあ」「親子を殺して婆さんだけ生かすという理屈はないだろう」「はあ」「遠眼鏡はないか」「見当たりませんでした」「橙の蒲公英の綿毛みたいなのが揺れているだろう」「はい」「旗幟に見えるか」「かもしれません」「では〈一服〉の猶予もない。行こう」露台を後に階段を降りていく。乳母らしい例の死体をわざと踏み躙る。私も彼に倣ってそうした。〈鉢猪ニ倒サレ黒黴ニ蝕マレ七日七晩怒濤ニ揉マレタ流木〉かと錯覚する程足の裏に空虚だった。私、「娘に過敏性皮膚炎の気があるようで、乾燥を避けてこちらで冬を越すようです。金属がよくないので、娘の匙や肉叉などを木製で揃えています。雑草を摘んだり虫を突っ付いたりするといけない、子供ですからね、碧絹の手袋を嵌めさせていたそうで。これも特注です。なるほど〈光ノ手〉とはこのようなものかと思ったくらいに光っておりました」「較虎王藍呂而帝三年か」「〈幵僂三年、帝隔手率迩山ノ閲台ヨリ御小手翳サセ給イテ年ノ国見サセ給イ、炊煙ヲバ紡ギ縒リ立テサセ給ウ。的皪タリ。眩暈タリ。〉です。今回の滞在は殆ど転居ですね。主人の言葉を借りれば〈疎開〉。娘が生まれた年に〈イイ記念ダカラ〉、〈コノ子ノ名前ヲ山荘ニツケマショ〉などと言って夫人が購入させたのですが、夫人の見栄を苦々しく思い、娘の過敏性皮膚炎の養生という名分があるにしても〈毎年恒例ノ越冬ノ儀〉は嫌で仕方がなかったようです。〈五十ノ声ヲ聞イテ肩ノ荷ガ降リタ〉と書いて急に作文の調子に変化が見られるのですが、栄達が望めないのを認めたのでしょう。原因結果の順序は分かりませんがね。まずは〈作文ノ調子〉から闊達になろうという〈跳躍板〉的景気付けのような悲壮感を私は覚えるのですが。実際それは成功したようです。彼の手記に登場する人名が格段に増えて明らかに社交的になりました。毎日毎日呪詛のような〈破局詩〉とやらを、細く小さな粒々した字で〈四ツノ蛇/五ツノ獣ノ/集マレル/穢身ヲバ/厭イ捨ツベシ/離レ捨ツベシ〉といったような具合で書いていたのが、人が変わったようです。多分、夫人が死んで伸び伸び出来るようになったというのもあるでしょう。百籍侯など潰し合い、足の引っ張り合いでようやく水面上に鼻先だけ出し続けられるようなものですが、向いていなかったのでしょう。この時局に〈疎開〉というのは百籍侯の発想ではありませんよ。それにしても〈テェーヤン、デレダッチャ〉とは」
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