千人の女の子の夜になっちゃんは死んだ (4)
雨がふった。
七月二二日にフィリピンの東海上で発生し、二六日には中型で、並の強さで奄美大島を通過、二七日に勢力をたもちながら九州の西の海上を北寄りにすすんだ。その後、勢力を弱めながらチェジュ島の東側をとおって朝鮮半島南部の黄海沿岸へすすみ、弱い熱帯低気圧となった。負傷者三人、全壊一棟、半壊一棟、一部損壊二一棟、床上浸水一六棟、床下浸水一九一棟。
たぶん、この台風だった。関東でも、少しは影響があったんだと思う。あの入道雲。ちなみに、奈津美は、大盛りのごはんって言ってた。無視してたら、
「かき氷」
って言いなおした。
「白いけど」
「練乳」
「そうか」
「練乳かき氷、練乳ぬき」
「ああ。ふわふわした」
「こまかくけずった」
「すごい、高そうなやつね」
「それ」
「ただの氷じゃん」
「しょせん、水だけどね」
高知県須崎市では、二七日一五時から二九日二〇時三〇分まで災害対策本部を設置。同市での被害は床上浸水一棟であった。また、同県大豊町内の各地で交通が寸断。二七日、大砂子で高さ五〇メートル、幅五〇メートルにわたって斜面が大きく崩壊したという。また、二九日には国道三二号において崩壊が発生し、路面が大きくぬけ落ち、穴内川に大量の土砂が流れこんだ。付近の交通は完全に断たれてしまい、災害復旧工事が完了したのは、災害発生から一年半が経過した二〇〇一年二月のことであった。また、甲浦港において三代目フェリーむろとが、台風の突風によって操船困難となり、防波堤に接触後に浅瀬にのりあげた。この台風により生じた全国の被害は、負傷者三人の人的被害に加え、住宅被害が全壊一棟、半壊一棟、一部損壊二一棟、床上浸水一六棟、床下浸水一九一棟となった。この台風による七月二五日から七月二九日までの豪雨および暴風雨による災害は、のちに局地激甚災害に指定された。
大変だったみたいだね。
わたしたちは、音楽室でひたすら合奏してて、なにも知らなかった。雨がふってきて、すずしくなってよかったって思った。少しいらいらしてた先生も、落ち着いた気がした。パーカッションの子たちが窓をしめて、それでも雨の音は消えなくて、ごうごう、外で、空が鳴ってた。テレビの砂嵐を百倍くらいにした騒音で、砂嵐なら、キャラバンの商人がヒツジの皮のテントで背中をまるめて、シルクロードのまんなか、さっきまでのぎらぎらした太陽が出てくるのを待ってる感じ。奈津美は、
「ノアの方舟」
って言った。なんだか分からなかったけど、わたしと同じようなシーンをイメージしてたって、いま、気づいた。動物たちと肩を寄せあって、世界を洗い流す雨がやむのを待ってる。先生は待ちきれないから、一回、最初からとおして、それで終わりにした。
そういうときによくあるけど、すぐにやんだ。
それから、急に気温がさがって、風はなかったけど、夜は暗くて、すずしかった。少し、寒いくらいだった。
早めに終わったから、夕食まで時間があってね、なんにもやることがなくて、ほとんどの子は家に帰った。入浴してくる。タオルを肩にかけて、髪をぬらしたまま、みんな、それぞれの家のシャンプーとせっけんのかおりをさせて、被服室でカレーのにおいをかいでた。となりの調理室で保護者たちがつくってた。
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