不死王曲(2)
〈テェーヤン、泥ンコニナル〉、〈テェーヤン、探検スル〉、〈テェーヤン、デレダッチャ〉などと〈ソコノ男〉百籍侯漏遅畫は日記帳に続き物でも連載していたつもりか、見出し風の花文字が踊る。小児的喃語を駆使して書かれている為、理解するのは骨だったが(〈デレダッチャ〉の意味は不明)、〈テェーヤン〉は百籍侯漏遅畫の娘である〈不細工ナ餓鬼〉射莽のことを言っている。三十頁前後では〈ヌャーヤン〉、〈スューヤン〉(稀少。二例)も見られるが〈テェーヤン〉に落ち着いた。この巻より前の日記帳は見当たらない。射莽が如何にしてその原型を失い〈スューヤン〉、〈ヌャーヤン〉を通過して〈テェーヤン〉まで変形したのか興味がなくもないが物置倉庫納屋本蔵まで〈コノ巻ヨリ前ノ日記帳〉を探して引っ掻き回す程私は酔狂ではない(平生なら、死ぬ程暇なら、あるいは)。地図はあった。三階奥の九帖は恐らく百籍侯漏遅畫の書斎であり、御馴染みの丸い大碧海盤を支えている〈太陽ヲ呑ム大鯱ニ爪ヲ立テ羽冠戴ク蛇ヲ負ウ王鵜〉の意匠が南面した大机案に覆い被さる様は〈四ツ目網ヲ打タレタ山女魚ノ稚魚〉。壁一面の地図を背負って座る百籍侯漏遅畫はそれなりの威厳を後光のように発散していただろう。だがこれは世界地図だ。〈踰部ハソレヲ珍ラシガッタ。彼ハコノ地図ノ中ニ自分ノ国モ、マタ自分ノ占領シタ門手斯島モアルノダト思イツイタ。ソウ《思イツイタ》以上ハ彼ハソレガドンナ風ニコノ地図ニ記入サレテアルカヲ知リタクテショウガナカッタ。踰部ハソノ地図ヲ〈凍髯奴〉ニ示シテ「モソット、前ニ進ンデコレヲ説明シテクレヌカ」ト言ッタ。両人ハ静カニ前ニ進ンデ行ッタ。踰部ハ地図ヲ下ニ置イテ〈凍髯奴〉ノ説明ヲ待ッタ。丈ノ高イ方ノ〈凍髯奴〉ハスラスラ説明ヲシテ行ッタ。「コノ青イ所ハ海デ、コノ鳶色ヲシタ所ガ山デ御座イマス。コノ地図ハ上ノ方ハ北デ、下ノ方ハ南」踰部ハソンナコトハドウデモヨカッタ。早ク自分ノ領土ガドコニアルカ知リタクテタマラナカッタ。〈丈ノ高イ《凍髯奴》〉ハナオ説明ヲ続ケテ行ッタ。「コノ北方ノ大キナ国ハ〈夜国〉ト申シマス。夜バカリ続クソウデス。ソノチョット下ノ大キナ所ハ〈枳豆登〉ト申シマス。ズーットコッチニ来マシテコノ広イ島ハ〈樂于盤〉ト申シマス」踰部ハ失望シテシマッタ。目星イ大キナ国ハ皆名サエ聞イタコトノナイモノバカリデアッタカラダ。ソレデモ彼ハ細イナガラモ望ミヲ持ッテイタ。トウトウ「ヨシヨシ。シテ、儂ノ領土ハ一体ドコジャ」ト聞イテシマッタ。踰部ハヤガテ〈凍髯奴〉ガ指差シテクレル大キナ国ヲ想像シテイタ。〈凍髯奴〉ハ少シ躊躇ッテイタ。踰部ハ急キ込ンデ「ウン、一体ドコジャ」ト言ッタ。二人ノ〈凍髯奴〉ハ互イニ顔ヲ見合ワセ何事カ頷キ合ッテイタガ、ヤガテ太ッタ方ノ〈凍髯奴〉ガサモ当惑シタヨウニシテ「サア、チョット見付カリマセンヨウデス。コノ地図ハ〈大キナ国〉バカリヲ書イタモノデスカラ、アマリ名ノ知レテイナイ、細カイ国ハ記入シテイナイカモ知レマセン。現ニコレニハ矛流圃サエアルカナシノヨウニ、小サク描カレテイマスカラ」トモジモジシナガラ言ッタ。踰部ハ「ナニッ」トタッタ一言低イガシカシ鋭ク叫ンダ。〉疼龜王毘瑠帝の所謂一連の〈鎮蛮旅〉譚のうち三十三番目の〈翰眉奴〉踰部藐類兄弟討伐に材を取った疊兎作〈翡翠〉の一節を思い出す。疊兎が瑜利安大学寮に在籍していた頃に書かれた最初期の愚作だが、彼が当時憧れていた播到や隈礼毛からの明白な影響を無視すれば、〈鎮蛮旅〉のなかでも相当地味で簡潔な記述しか現存しない〈踰部藐類兄弟討伐〉を書いたのは手柄だとまずは言える。神代の悪神に兄弟間の火遠火照感情複合を想定し、兄踰部の架空の卑小な人格を言わば〈痴ノ器〉として、疊兎自身の屈託を注ぎ込む結果となったのは面白い。百籍侯漏遅畫は〈踰部〉の心とは金輪際無縁だっただろうか。今時〈霓露〉などをのんびり啜りながら山荘に起居する平穏な生活を送り得る。そんな中世的百籍侯がまだ存在しているのは意外だった。私の脳裏には〈テェーヤン〉射莽の印象が強く残っている所為で、〈百籍侯漏遅畫ガ翰眉奴踰部ト決定的ニ違ッタノハ《テェーヤン》射莽ガイタコト〉という観念が結晶していたが、安易で気に入らなかった。よく見ると実に〈不細工ナ餓鬼〉だったから。
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