千人の女の子の夜になっちゃんは死んだ (9)
「なんだっけ。そう、それで、栄橋、伏見橋、末広橋まで来て、でも、おまえ、けっこう十分前とか二十分前くらいには来てるやん。それで、ふつうに時間どおり来ただけのわたしを、
「なにやってんの」
みたいな目で見るでしょ」
「見てないけど」
「今日は、わたしのほうがぜんぜん早かった」
「えらい」
「新宿で、って言ったんだから、中野にいるとは思わないでしょ。え、そうだよ。橋のこっちが中野で、あっちが新宿。
知らなかったんだ。
ぎりぎりになっても来ないから、なんか、飲みものでも買おうかと、橋をわたってコンビニに来た」
「はあ」
「分かった」
「まあ、途中から。橋の名前とか、よく知ってるな」
奈津美は胸をななめにねじって、ガムとかの棚とわたしのあいだに、肩を入れた。急にそんなことするから、なんだか分からなくて、
「よく知ってるな」
が、むかついたのかと思った。ひじのくぼみは汗くさかったけど、首すじは人間のにおいじゃなかった。焼きたてのビスケットだった。
そのまま、うしろにまわって、サンドイッチとかの前をまがって、奥に行った、ふたつむすびにした、ふたつの髪の噴水の放物線のてっぺん、ヘッドドレスが、人形劇か影絵の船みたいにおかしのふくろがならんでる上をすべって、とおりすぎた。
「じゃあ、行くか」
帰ってきた。
「なに。トイレ」
「そうだよ」
「びっくりするだろ」
「あんたに許可してもらうことでもないだろ」
「さっき公衆トイレでしたばっかりじゃなかったの」
「水分、とりすぎた。熱中症にならないように」
いちいち、そのとおりで、納得もできるから、わたしのほうが変な人みたいだった。
新宿の駅のほうまで歩いて、でも、新宿ではなにもしなかった。原宿に行った。移動しただけでつかれた。なにしろ、暑かった。竹下通りを見おろす喫茶店、カフェで休憩した。まだ、なんにもやってなかった。
急に空がくもって、雨がふった。
天気予報でどう言ってたのか知らないけど、そのにわか雨で、みんな、こうなるって知ってたみたいに、整然と最寄りのお店の軒下に避難して、そうそう、避難訓練みたいに少しも渋滞せずに、先生に怒られないように緊張しておとなしくしてるみたいに、しずかに道がひらけて、踏みにじられてくすんだ肌色のアスファルトが見えた。幕があがって、まっさらな、だけどうす暗い光の下、うすあかるい影のなか、傘を持ってる人がいた。
青に白の○の水玉が、わたしの視界、窓の左から右へ、通りのゆるい坂をくだっていった。
誰だったんだろ。
直径は、おじいちゃんの家のひとり用のちゃぶ台よりちいさくて、翼竜かコウモリみたいな関節、谷折りと山折りの線があったから、きっと折りたたみ傘。
たったひとり、自分だけ傘をさして、雨やどりの人たちの視線にさらされて、一歩、一歩、竹下通りを歩くのはどんな気分なんだろう。
気持ちよかったのか。
それとも、なんか、悪い気がして、かえってはずかしい、申し訳ない、でも早足で逃げるようにとおりすぎたら、いよいよ悪者みたい、だから、どきどきしながら、そんなにこわがらなくてもいいのに、能か狂言みたいに神妙に足をあげて、音もたてないようにおろしてたのかもしれない。
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