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【日本ヤクザ協会会長】 統失2級男が書いた超ショート小説 

昭和11年の淡路島で三上琵人の両親は、地元のヤクザの首領に逆らい殺された。琵人の命を心配した父親の友人の手助けに依って、琵人は淡路島から東京に逃げ延びる事となった。琵人12歳の冬の事である。

戦後の東京で生き抜く為に琵人は24歳の時に闇市で用心棒のまとめ役を始めた。特別優れた体躯をしていた訳では無かったが、琵人の胆力は人一倍優れており、琵人はその胆力を武器に渋谷界隈の不良たちを束ね上げ、所謂、愚連隊と呼ばれる三上組を結成したのだった。終戦直後の日本では警察の力も弱体化しており、不良外国人たちに警察署が襲撃されるという事件も度々発生していた。三上組はそんな警察に加勢して不良外国人たちと戦っては警察と懇意にしていた。また渋谷警察署の署長から琵人に対し、治安維持への貢献を称えるとして感謝状が贈られる一幕もあった。琵人の明晰な頭脳、優れた胆力、そして警察の後ろ盾もあり、三上組の勢力は拡大の一途を辿っていた。しかし、三上組のやっていた事は決して褒められるものばかりでは無かったのも事実であった。みかじめ料を払わぬ者への暴力、他組織との抗争に依る殺人、麻薬の密売。最初は仲良くしていた警察も、三上組とは徐々に対立するようになって行った。それでも昭和46年を迎える頃には、三上組は全国的な組織にまで成長しており、琵人は『日本ヤクザ協会会長』に就任していた。そして両親を殺した淡路島のヤクザは既に粛清済みだった。

田川徹は12歳の時に3つ年上の姉を殺されていた。ヤクザの抗争に巻き込まれ流れ弾に被弾して死んだのだ。発砲したのは三上組の末端組員だった。徹は姉の葬式で涙を流す事は無かったが、多感な時期の姉の死は徹の心に深い影を落とした。それから規則正しく季節は巡り続け、徹は24歳になっていた。しかし、どれだけの時間が過ぎようとも、徹の三上琵人に対する憎しみは微塵も薄れる事がなかった。24歳の秋、徹は遂に決断する。12年来の復讐を果たす事にしたのだ。琵人には子が1人だけ居たが、それは年を取ってからの子で名をまどかと言った。まどかはとある週刊誌の正月の琵人家族を取材した記事で顔写真を日本中に公開していた。また別の週刊誌は、『日本最強ヤクザの1人娘は、明応大学に通う秀才美女』との見出しで、まどかのインタビュー記事を顔写真付きで載せていた。まどかは大学卒業後の芸能界入りを希望しており、積極的にメディアへの露出を続けていたのだ。しかし、それは日本最大の暴力団トップの娘としては、余りにも危機管理を軽んじた行動だった。労せずまどかの情報を得る事が出来た徹は大学から駅に向かって歩くまどかを待ち伏せ、夕映えの街路樹の下、銃弾5発をまどかの体に撃ち込んだ。まどかの僅か20年の生涯は、救急車の中で呆気なく終わりを遂げる事となってしまった。それは、余りにも短い生涯の余りにも悲しい終わり方だった。まどか本人の強い希望でボディーガードが1人も付いていなかった事も、この惨劇の一因だったのかも知れない。徹は琵人本人を殺すより、愛する1人娘を殺した方がより琵人を苦しめる事が出来ると判断したのだった。徹の復讐劇はまどかを撃った後、その場で残り1発の銃弾を自分のこめかみに撃ち込んで自分の命も終わらせる事で完結した。まどかを失った琵人は深く悲しみ落胆し、程なくしてヤクザを引退する事となった。琵人は余生を、『世界人殺し禁止協会会長』として生きる事にし、数々の慈善事業に財力と労力を惜し気もなく注ぎ込んだ。それは、琵人なりの罪滅ぼしであった。

琵人は74歳でこの世を去ったが、死後は同じ来世を1万回繰り返した後、地獄で1万年を過ごす事になっていた。地獄の刑期を終えた後は天国に転送され、12歳の時に殺害された両親と1人娘のまどかと2番目の妻であるまどかの母親と何一つ不自由する事なく仲睦まじく永遠に暮らす生活が待っていました。

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