四国巡礼日記9~経済学者、お遍路をゆく《春》~
昨日に続き、今日も国道五十五号線を南の方角に向かって歩く。寝る前までずきずきと感じていた足の痛みがほとんど退いていた。良かった、これなら今日も歩けそうだ。
水床トンネルを越えるといよいよ高知県に入った。どことなく、ヨーロッパを旅行していて感じたような、陸路で国境を越えるのと同じ感覚がある。私は日頃から自宅と職場の往復で必ず県境をまたぐが、その時にはこのような感慨を抱くことなどまったくなく、これも歩き遍路の不思議さなのだろうと思う。
四国は文字通り四つの国から成るが、各県にある札所をひとまとめにして道場と見る。阿波徳島の二十三か寺は発心の道場、土佐高知の十六か寺は修行の道場、伊予愛媛の二十六か寺は菩提の道場、そして讃岐香川の二十三か寺は涅槃の道場である。札所と札所の距離が長い高知県は、歩き遍路にとって体力面でも精神面でも辛いエリアであり、修行の道場の名は伊達ではない。四国巡礼もここからが本番と言えるかもしれない。
県境の徳島県側にある海陽町では「世界初が走る」というポスターをしばしば見かけ、同じく高知県側の東洋町では「世界初に乗れる」というポスターがひんぱんに目に付いた。何が世界初なのかというとDMVで、町内の観光地図にも赤青緑と光の三原色に色塗られたDMVが描かれている。と言っても、ほとんどの人はDMVが何なのか、そもそも知らないだろう。昨日までの私もそうだった。
薬王寺から次の最御崎寺までは距離が長いため、いざという時のために日和佐駅の切符売り場で鉄道やバスの路線図を調べていた時の話だ。駅の運賃表からすると鉄道はJR牟岐線の阿波南海駅が終点のようだったが、私のガイドブックに載っている略地図では線路がその後も続いているように見える。よく分からないので、阿波海南が終着駅なのかどうかを切符売り場兼土産物屋のおばちゃんに訊ねてみると、そうだと言う。
「その先はDMVやからね」
DMV? 首を傾げている私に対して、おばちゃんは声に得意げな響きを持たせながらこう続けた。「電車にもバスにもなるのよ」。
つまり、DMV(デュアル・モード・ビークル)とは線路の上を走れるバスで、阿波海南駅の先にはそのバスが道路を走っているということのようだ。わずか四か月ほど前に営業を開始したばかりのバス会社がJRとは違うので運賃表にはその先の駅名がないのだった。とにかく、バス兼鉄道が走っていることが分かったのは収穫で、私は大きく安心したのだった。
高知県に入ってからはほとんどいつも波の音が聞こえている。海と山に挟まれた格好の国道五十五号線にはほとんどひっきりなしに自動車が走っているが、たまに流れが途絶えた時など、波の音が山に反射して左右からやってくる。自然のステレオといったところだ。波の音をBGMにしながらの修行なんて洒落ているではないかと、しばらくの間、私は歩きながらひとり悦に入っていた。
違和感を覚えたのは歩き始めて二十キロを過ぎたあたりだった。歩いていて、どうも股間の辺りにひりひりとした痛みを感じる。立ち止まってから改めて痛みの辺りを触ると右の太ももの付け根からお尻にかけて激痛が走った。どうやら股擦れのようだった。歩くたびに皮膚が下着と擦れるので、長時間歩けば当然あり得る話だとはいえ、ここにきて大きなダメージである。実はこの直前から、やはり右膝の上に足がつったような痛みがあり、右足をかばうような歩き方で進んできたのがまずかったのかもしれない。それでも歩くほかは仕方がないのだ。
歩き遍路に共通の悩みとしてよく聞くのは足裏の水ぶくれである。これが潰れると一歩一歩が実に痛いらしい。巡礼に出る前は私も大いに懸念していたのだが、幸いにも今日まで水ぶくれには悩まされずに済んでいる。それがまさか股擦れとは完全に想定外だった。
いったん痛みを意識するとそっちが気になって歩くことに集中できなくなる。むろん、景色を楽しむ余裕もたちまち失われてしまう。一日の「ノルマ」を達成して早く宿に入りたいという気持ちがどんどん強くなるのだ。途中、色んな景色を目にしてきたはずだが、「密航は許さない」というインパクトの強い看板が記憶に残っているくらいで(「密漁禁止」の立て札はたくさん見かけたが、「密航禁止」は初めて見た)、後はほとんど印象に残らずじまいだった。
私は昨日と同じ三十二キロをどうにか歩くと、いそいそと今夜の宿を探し始めた。ところが、道中で手に入れた宿泊情報一覧や地図アプリを見ても、どうやらこの辺りに宿はないようだった。ようやく、十キロ先にホテルがあるのが分かり、これまでの宿と比べると少々値が張るもののここに決めた。安い値段を求めて色々と調べたり、道沿いから外れて余分に歩いたりする気分ではなかった。
私は知らなかったのだが、室戸は海洋深層水で有名で、その宿には海洋深層水の露天風呂が備わっていた。これは塩湯でいかにも身体の芯から温まる……のはよいが、いささか股擦れに滲みる。まるで因幡の白兎のようだ。露天風呂はあきらめ、土佐備長炭を浴槽に沈めた内湯に浸かると、修行の疲れが癒されるようであった。とんでもなく豪勢な海鮮懐石の夕飯に舌鼓をうち、これまた修行の疲れが癒されるようであった。時代と共に修行の中身も変わるのである。