送り火の夜に夏を振り返る
今日は8月16日。
京都では五山の送り火が行われる。
私にも送るべき祖先はいるけれど、祖父はきっと祖母の元に帰っているだろうし、その上の代と言われると面識がない。
だから、どこかで送り火を見ながら手を合わせることくらいしかできない。
送り火は京都にとって大切な行事だ。
そして、夏の終わりを感じさせるものでもある。
相変わらず昼間は外に出るのが億劫になるほどの猛暑だけれど、少しづつ朝夕が涼しくなっている。
そうやっていつの間にか夏が終わるんだろう。
振り返ってみると、今年の夏はとても忙しかった。
私にとって、夏の始まりといえば、水無月である。
水無月とは、6月30日に京都で食べられる和菓子である。
氷を模した三角形の台に、魔除けに通ずる小豆がのる。
夏に向けて水無月を食べることで、暑気を払うのだ。
ただし、暑気払いの水無月とはいえ、その正体は甘くてもちもちした和菓子だから、たくさん食べたとしても身体は冷えない。
しかし、私は友人が怯えるほどの水無月を食べる。
取り憑かれているかのように買っては食べ比べる。
食べ過ぎて太るまでが私の初夏の風物詩である。
そして、7月になると祇園祭だ。
ありがたいことに、今年は綾傘鉾の専属として各行事に随行させていただいた。
祇園祭の宵山や山鉾巡行といえば、多くの人の知るところと思うが、それ以外にも様々な行事がある。
さらに、同じ時期にグループ写真展に出たこともありひとしおに忙しかった。
そんなわけで、怒涛の7月前半を過ごし、撮りすぎた写真の整理に四苦八苦する7月後半であった。
そう、撮りすぎた。
ざっと18,000枚ほど。
連写が多いこともあり数を撮ることが偉いわけではなく、むしろ、無駄撃ちの多さを恥じるべきかもしれない。
ただ、撮っても撮っても飽きることがなかった。
とにかく夢中になっていた。
どう撮ろう、次はどうする。
ずっと考えていた。
宵山の地囃子と棒振り囃子は、全日程で各11回あったのだが、10回は場所を変えレンズを変え撮り続けた。
自分の手札の少なさが悔しかった。
もっと撮りたかった。
巡行はとにかく必死で、暑さなど感じなかった。
実際、昨年と比べると曇りで涼しい巡行であった。
さらに、8月には壬生六斎念仏壬生寺盂蘭盆会奉納があった。
こちらも去年から公式として撮らせていただいている。
拝見するようになってからは4年目だ。
毎年新しい演目が行われるからいつでも新鮮味がある。
しかし、今年はそれだけでなく、むしろ4年目だからこそ楽しかった。
顔見知りがずっと増えたからだ。
見慣れた演目でも初めての演者、ということもある。
そのことがわかるようになったのが嬉しい。
同じ人が同じ演目を行うにしても、昨年との差分を見つけるのがたまらなく面白い。
そして、これは永続的に楽しくなり続ける予感しかしない。
そんなわけで、この夏は他の季節にはない忙しさだった。
暑いのは苦手だ。
私は、冬生まれなので、寒さには耐性があるが暑さには弱い。
ただ、忙しさの中で夏の楽しさを存分に知ってしまった。
これはどうやら毎年夏を楽しみにすることになりそうだ。
追伸
書き始めたときはどこかの送り火を見に行く気だったのだが、結果として送り火ではない送り盆行事へ向かった。
中堂寺六斎念仏壬生寺奉納だ。
直接的な要因は考えていた送り火の場所が空振りだったことだが、せっかくなので来年を見据えて普段撮らない角度から撮ることを意識した。
来年どうしようと考えながら、これからの1年を精進していきたい。
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