プロレス・スーパーヒーロー列伝 心優しき大巨人、ジャン=リュック・ジャイアント編 【短編小説】
2004年、アメリカのメジャープロレス団体であるWHOが行ったインターネット投票「20世紀で最も偉大なプロレスラー」ランキングにおいて、ジャン=リュック・ジャイアントは二位以下に圧倒的な大差をつけて第一位を獲得した。ジャン=リュックがマットを去ってからまだ11年と比較的短く、それにそもそも彼はWHOがホームとするニューヨークを主戦場にしていた、という有利な面からすれば当然の結果とも言えるが、ジャン=リュックがトップレスラーの地位にあったのはキャリア後半の八年ばかりとそれほど長いわけではない。最晩年はニューヨークを追われるようにして去り、日本を主な活躍の場にしていたくらいである。シカゴを本拠としていたバーン・クロステルマンやジョージアやマイアミを主戦場にしていたルー・リトヴャクといったトップレスラーが四半世紀の長きに渡って腰にチャンピオンベルトを巻き、地元のヒーローとして君臨し続けたのと比べれば、ジャン=リュックのキャリアは短いとさえ言えるだろう。彼の人生とは、どのようなものだったのか?
ジャン=リュック・ジャイアントことジャン=リュック・ルマールは1946年、カナダ、モントリオール郊外の小さな町で生まれた。フランスの山奥で樵として働いていた所をスカウトされた、という従来のプロフィールは完全な作り物である。ケベック州というフランス語圏で育った彼は24歳でプロレスラーになるまで英語は話せなかった。子供時代の彼を知るほとんどの人が口にするのは「ジャン=リュックは普通の子供だった」という言葉だ。これには身体のサイズも含んでいる。世界の八番目の不思議と言われた彼の巨体、公式には身長224センチ、体重230キロと称されていたジャン=リュックの身体は幼少時代はいたって普通だったのだ。父親のピエールは第二次大戦から復員したのち、地元の木材加工工場で働いていた。母親のメアリとの間にはすでに二人の娘があり、八年の時間をおいて授かった男の子がジャン=リュックであった。関係者の証言からも、父親や母親、二人の姉たちがごく標準の体格であったことは確実である。そして子供時代のジャン=リュックも。しかしジャン=リュックの幼少時代は決して恵まれたものではなかった。彼がまだ三歳の時に母親のメアリが突然死してしまったのだ。
二月の寒い日のことだった、と姉たちは証言している。ジャン=リュックは母親と二人、家で過ごしていた。仕事に出勤した父親、中学生になっていた姉たちが学校へ出かけると、まだ幼いジャン=リュックは積み木遊びをするか、母親に絵本を読んでもらって、外出の出来ない冬のケベックの日々を過ごしていた。「33歳で生まれた男の子のことを母はとても可愛がっていました」と姉の一人、ジョゼは語っている。「ええ、それは溺愛と言っていいくらいでしたね」
その瞬間の目撃者はいない。唯一、ジャン=リュック本人は当事者といえるが、彼も「当時のことは覚えていないよ、二歳か三歳の頃だったからね」と語っている。しかし、母親の検死報告書によれば、突然の脳溢血が彼女を襲い、ほとんど即死状態だったようだ。彼女は昼食に作っていたコケモモパイをオーブンから取り出した所でこと切れたようで、もし、もう少し早かったら家は火事になり、ジャン=リュック共々焼死していた可能性もあった。姉が学校から帰ってくると、ジャン=リュックは台所で横向きに倒れた母親の身体に寄り添うようにしてすやすやと眠っていた。コケモモパイが床に転がり、お腹を空かせた彼はそのパイを手掴みで食べたようで、口と手はすっかり汚れていた。
母の死後、ジャン=リュックは一時祖母の元へ預けられたこともあったが、学校へ上がる頃にはまた家族の許に戻った。年の離れた姉たちが母親代わりになったこともあり、問題なく成長していく。
中学生の頃まで、彼はラグビーに熱中していた。ポジションはスタンドオフであり、正確なキックを得意としていた。しかし、高校生になった頃からジャン=リュックの身体に変化が現れる。身長が異様なくらいに伸びはじめたのだ。脳下垂体に腫瘍ができ、成長ホルモンが異常分泌されたのが原因による巨人症だった。16歳の一年間で20センチも背が伸びている。急激な身体の変化に関節の成長が追いつかず、膝にはいつも痛みを抱えていた。高校時代の同級生は「彼はほとんど松葉杖を手放すことがなかった。僕の背丈と同じくらいの大きな奴を抱えて歩くジャン=リュックの姿はまぶたに焼き付いているよ」と語った。20歳になって身長が220センチに達した時、父親はモントリオールの病院に息子を入院させた。当時としては難度の高かった腫瘍摘出手術は無事に成功し、ようやく彼の身長の伸びは止まった。手術ののち、半年に渡るリハビリを終えると、膝の痛みもなくなり、ラグビーに復帰できるほど体調は万全になっていた。もちろん、ポジションはスタンドオフからフォワードのロックに変わらざるを得なかったが。
21歳の時、ジャン=リュックは父親と同じ製材所に職を得て働きはじめる。モントリオール郊外、セントローレンス川沿いにある工場はラグビーフィールド50面以上の広さを誇る巨大な施設であり、地域の主要産業でもあった。フランスの山奥で樵をしていた、というよく知られたプロフィールもまったくの作り物ではなく、ある程度の事実を下敷きにしていたわけだ。当時は現在ほど工場のオートメイション化は進んでおらず、ジャン=リュックの巨体から絞り出される成人男子三人分のパワーは重宝された。この時期に彼の身体は鍛えられた。弱々しく、松葉杖を突いていた高校時代からは想像も出来ないほどジャン=リュックは強く、逞しくなった。最初、工場内のチームで遊び程度でやっていたラグビーもケベック州代表チームのヘッドコーチの目に留まるほどになっていた。実際、彼にもう少しの走力があればカナダ代表のユニホームに袖を通すことも不可能ではなかった。ボールを持っての突進や、ドライビングモールでの前進力は目をみはるものがあったが、俊敏性や持久力はアマチュアレベルを超えるものではなかった。しかし、そんなジャン=リュックに目をつけ、何度も足繁くスカウトにやってくる男がいた。モントリオールのプロレス興業主、パット・カーペンティアである。
パット・カーペンティアは当時45歳、ベテランレスラーであり、モントリオールの興行権を得たばかりの野心家であった。フランス出身の彼は戦時中にリヨンでヴィシー政権下の教師として働いていたが、戦後、ドゴール体制になってからの迫害に嫌気が差し、ケベックに移住した。体操教師としての肉体を生かしてプロレスラーに転身すると、今までのレスリングにはないアクロバティックな動きで人気を博す。コーナーポスト最上段によじ登ってから相手に飛びかかる技を世界で最初に披露したのはカーペンティアだと言われている。全盛期にはニューヨークのマジソン・スクウェア・ガーデンでのメインイベンターをつとめたし、シカゴ、ミネアポリス地区には定期的に遠征し、バーン・クロステルマンと抗争を繰り広げていた。ジャン=リュックは当初、プロレスラーにならないかという誘いにはあまり魅力を感じていなかった。何よりも彼はこれ以上、目立つのが嫌だった。220センチの男が街を歩けばただそれだけで注目され、指差され、ひそひそ話される。高校時代に身長が二メートルを超えて以来、彼はすっかり内向的な男になっていた。ラグビーで活発に動き回っているのはその憂さ晴らしだった。しかしカーペンティアから製材所での五年分の給料を一年間の年俸として提示されると彼は折れた。脳腫瘍を摘出する手術で父が背負った借金がまだ残っていたからだ。
こうしてジャン=リュック・ルマールは24歳にしてプロレスラーへの道を歩み始める。当時の写真ではどこか不安気な表情でパット・カーペンティアと握手する姿が残っているが、後年、世界のトップレスラーになった彼とはだいぶ印象が違う。上背こそ高いが、まだ身体の線が細く、厚みがない。巨大な身体をさらに大きく見せていたアフロヘアーでなく、七三に分けた髪を撫で付けて、どこか神経質そうだ。デビュー当時はリングネームもあまり定まらず、本名のままだったり、モンスター・ルマール、ジャン=リュック・ジャイアント、シャルル・ド・モンスターといくつか使い分けていた。
「プロレスをやるためのトレーニングはほとんどしなかった」と後に彼は語っている。「せいぜい三日か四日だった。パットは私にそんなものは求めていなかったんだ」
その通り、パット・カーペンティアは以前ほどアクロバティックな動きが出来なくなった自らを引き立てるための道具としてジャン=リュックをリングに上げたのだった。身体こそ大きいが動きの遅いのろまな大男、それが求められた役どころだった。パット・カーペンティアの息子が大切に保管していた当時の資料の中には、リングで戦うジャン=リュックとパット・カーペンティアの一戦が写された八ミリフィルムがあった。音声が入ってないため会場の盛り上がり具合こそ不明だが、ジャン=リュックが両手を広げて捕まえようとするところをカーペンティアが逃げ回り、ジャン=リュックの脚の間をくぐり抜けると、背後からお尻を蹴り上げる、とまるで全盛期からは想像もつかないあしらわれようだった。主に転戦していたのもモントリオール、オタワ、トロントといったカナダ地区に限定されていて、カーペンティアの引き立て役にすぎなかったジャン=リュックが観客動員にどれだけ貢献できていたかは計りかねる。しかしモントリオールにとんでもない巨人レスラーがいるという噂は業界に広まっていた。噂を聞きつけた一人にバーン・クロステルマンがいた。彼はお忍びで会場にやって来てジャン=リュックの動きを観察し、与えられている役以上のポテンシャルを彼が持っているのを確信すると、さっそくスカウトにかかる。パット・カーペンティアとの契約が切れる五日前のことだった。
「シカゴに来る気はないかね?」バーン・クロステルマンは自らが泊まるホテルにジャン=リュックを呼び出すと、そう話しかけた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、クロステルマンさん」とジャン=リュックはまだ拙い英語で答えた。「しかし、もう僕は道化を演じるのはこりごりなんです。もし、シカゴに行って同じようなことをやれと言われるのなら・・・・」
「ほう、まるで自分はレスリングが出来るぞ、と言っているようだな」
「そのようなことは・・・・」
「とにかく一度シカゴに来い、そこで俺がお前にレスリングを叩き込んでやる。その上で、お前が使えるかどうか、俺が判断する。何しろカナダのプロレスはレベルが低い。もしお前がもっと稼ぎたいのならいつまでもここにいるべきではないな」
1971年、ジャン=リュックはシカゴに拠点を移し、バーン・クロステルマンが実質的にオーナーを務める団体、IMFの支配下に入った。しかし最初の半年間、彼に出番はなかった。グレコローマンスタイルのレスリング選手であり、オリンピックに出場した経験をもつクロステルマンはレスリングの出来るレスラーとしか契約しなかったことで有名だった。ショーマンタイプのレスラーは嫌われ、どれだけ人気があろうがスポット参戦さえ断られた。ジャン=リュックが最初に送り込まれたのも経験の浅い若手レスラーをトレーニングするための施設、通称「熊の穴」だった。シカゴとミネアポリスの中間、人里離れた山の中にあるロッヂ風の建物の中に設けられたリングとトレーニング器具の中でひたすら練習に励む。まわりにはジャン=リュックと同じようにクロステルマンにスカウトされた若手レスラーや、フットボールや重量挙げから転向してレスラーを目指す若者たちが十人近く住み込んでいて、互いに競い合わされていた。IMFの中堅レスラーがコーチ役として若者たちをシゴいていたが、常にシカゴとミネアポリスを行き来していたクロステルマンが直接、指導することもあった。ジャン=リュックはこの熊の穴でレスリング技術を基礎から教わり、身につける。全盛期の彼がただの巨人レスラーではなく、高度なレスリング能力を持っている、と評された原点がこの熊の穴だった。重たい木材を運び、ラグビー選手としても鍛えていた彼だからこのトレーニングに耐えることが出来たといえる。もし彼が本当に身体が大きなだけののろまな男だったら、バーン・クロステルマンからIMFのリングに上がることは許されなかっただろう。
翌年、ジャン=リュックはミルウォーキーの収容人員五百人ほどの小さな会場で再デビューを果たす。この時からリングネームはジャン=リュック・ジャイアントに固定され、以後変わることはなかった。デビューからしばらくは試合の順番も第一か第二試合と前座が続き、カナダ時代のようにメインイベンターの引き立て役をやらされることはなかった。それでも対戦相手が小柄軽量であれば、ウスノロの大男の役を自ら引き受けたり、大柄な肉体派であれば迫力のあるスーパーヘビー級のぶつかり合いを演じることが出来た。こうした巨人レスラーとしては稀有な器用さが団体内に認められると、バーン・クロステルマンもジャン=リュックを本格的に売り出しにかかる。クロステルマンは自らが保持する団体内のチャンピオンベルト、IMFヘビー級タイトルマッチの相手にジャン=リュックを指名する。デビューして二年もたたない新人には破格の扱いだった。試合結果こそ三本勝負のうちクロステルマンが一本先取のあと両者リングアウト、と残念なものだったが、ジャン=リュックも腕関節を極めたままのクロステルマンを片腕一本で抱え上げると、リング下に放り落とすといった怪物ぶりを見せつけた。
「IMF時代だ、この仕事が面白いと思えるようになったのは」とジャン=リュックは語っている。「自分でも吹っ切れた感じだった。それまで、自分は目立つのが嫌いだった。でもそれは無名なのに身体が大きいせいで注目されていたからだ。じゃあ、有名になってしまえば不自然じゃなくなる、と考えるようになったんだ」
まだ若い頃のジャン=リュックの身体つきが細かったのは、食事制限を自らに課していたためだった。高校時代、際限なく伸び続ける自分の肉体に恐怖を覚え、最低限のカロリーしか口にしなかった時期があった影響で、手術で成長が止まってからも食事の量は人並みより少し多いくらいだった。そんな精神的な枷もなくなり、さらには父親の借金も完済して金銭的な余裕が生まれたことで、ジャン=リュックは盛大に食べはじめる。この時期、IMFに所属していた五年間でジャン=リュックの体重は70キロも増えている。立ち寄ったレストランの冷蔵庫が空になるまで注文を止めなかったとか、ホテルのバーが閉店するまでビールを飲み続けたといった、彼の伝説が生まれたのもこの頃だ。名実共に世界の大巨人の地位に近づいていく。
IMF時代、ジャン=リュックは初めての海外遠征として日本に派遣される。日本の後発プロレス団体、国民プロレスとIMFが業務提携を結んだことが契機となり、五年間で計三回、日本を訪れている。初来日の時こそまだ若手ということもあり前座試合を務めたが、その飛び抜けた巨体としっかりしたレスリング技術は高く評価され、国プロ社の社長の吉村は「ぜひまた送ってくれ」とクロステルマンに要請している。この時に出会った日本人レスラーのマッスル山下とは終生に渡る友情を育み、家族ぐるみの付き合いをすることになる。若い頃にアメリカにレスリング修行に行き、三年間も各地をサーキットして英語が話せる山下は日本滞在中のジャン=リュックの世話役でもあった。
「国民プロレスに来ていた頃の彼は日本ではまだ無名だった」とマッスル山下は当時を回想してこう語った。「ジャン=リュックはそんな知られていないのをいいことによくイタズラを仕掛けていた。例えばホテルの廊下で向こうから女性が歩いてくるとする。彼は曲がり角に隠れていて、女性がすぐ目の前に来たところで突然、姿を現すんだ。あの大男がいきなり立ちはだかるわけだから女の人はびっくり仰天さ。中には腰を抜かす人もいたな。もちろん、それ以上なにかするわけじゃないよ。一般の人を驚かせて喜んでいるだけさ。彼はそんな茶目っ気のある男だったよ」
IMFに所属していた五年間でジャン=リュックのプロレスラーとしての実力、人気、経験は高まり、客を呼べるトップレスラーとしての地位を獲得していく。一方で大きな問題を抱えることにもなる。その問題とはプロレスラー、ジャン=リュック・ジャイアントが最後の最後、リングを去るその時まで持ち続けた深刻なものだった。それはジャン=リュックを負かすのが難しくなった、という問題だった。プロレスのリングの上で繰り広げられている勝負は生身の人間同士のぶつかり合いだから、絶対はない。地元のヒーローが大声援を得ていても、彼がずっと勝ち続ければマンネリ化し、客に飽きられてしまう。よそからやってきた悪役に時には負けることでリベンジ戦が盛り上がり、観客も熱狂する。そんなプロレスのバランスを崩してしまう存在、それが大巨人ジャン=リュック・ジャイアントだった。何しろ彼は身体が大きすぎるからごく一般的な技、相手を抱え上げてマットに叩きつけるボディスラムさえ、仕掛けることが出来ない。体重がありすぎて誰も持ち上げられないのだ。だからとはいえ、ジャン=リュックをずっと勝たせ続けるわけにもいかない。団体のトップにはクロステルマンが君臨し、彼がすべてを仕切っていた。まともな技がかけられず、殴っても蹴ってもびくともしないジャン=リュックが敗戦をしないにもかかわらず、トップの地位にいない理屈が成り立たなくなってきた。またバーン・クロステルマンは自分が引退したのちは息子のグレッグを団体のエースに据える腹づもりでいたから、そんな意味でもジャン=リュックは立場を失いつつあった。
「クロステルマンさんに別れを告げたのは自分からだった」とジャン=リュックは語っている。「ニューヨークから誘われているんでね、契約は更新せずに移籍するよ、と言ったんだ。でもそれは嘘だった。翌日には自分からニューヨークに電話をかけて売り込んだよ」
シカゴ、ミネアポリス地区に活動の場が限られていたとはいえ、大巨人ジャン=リュック・ジャイアントの評判はニューヨークのプロレスファンにも届いていた。ジャン=リュックの移籍はニューヨーク市民に大熱狂とともに歓迎された。何よりもニューヨーク市民はニューヨークこそが世界の中心だと思い込んでいる。世界一の大都会、ビッグアップル。その街に世界一の大巨人が乗り込んでくることに不満があるはずもない。それに当時ニューヨークと東海岸一帯をテリトリーとする団体、WHOは危機に瀕していた。団体のエースであり、絶大な人気を誇るトップレスラーのブルーノ・カルネラが試合中の事故で首の骨を折り、長期欠場中でもあったのだ。
ジャン=リュック・ジャイアントが初出場を果たしたマジソン・スクウェア・ガーデンでの試合は満員札止め、立錐の余地もないくらいの立ち見で埋め尽くされ、ジャン=リュックが花道に姿を現しただけで大歓声、のっしのっしと歩き、トップロープを跨いでリングに入場すると地鳴りのような熱狂が会場を包み込んだ。対戦相手は中堅どころのタッグチャンピオンの一人だったが、試合途中でタッグパートナーが乱入し、ジャン=リュックは二人を同時に相手をした。一人がコーナーポスト最上段から飛びかかるが、ジャン=リュックはしっかりと受け止めびくともしない。さらにはもう一人が飛んでぶつかってきたが、同じだった。マットに二人同時に叩きつけ、ジャン=リュックのノックアウト勝ち。会場の興奮は最高潮に達していた。ジャン=リュック・ジャイアントは一夜にしてWHOのトップレスラーの地位を確立する。
ジャン=リュックがニューヨーク行きを決めたのはギャラの多さや地位だけではなかった。長年、WHOを率いているプロモーターのジョン・マクレーンはクロステルマンやカーペンティアと違ってレスラー兼業ではない。スーツを着たビジネスマンである。自分の地位が脅かされるのではないかという疑念を持たないことが確実なのも、ジャン=リュックがWHOを選んだ大きな理由だった。ジョン・マクレーンは19世紀からニューヨークでボクシングやプロレスの興業を打っていた一族の出身で、生き馬の目を抜くプロレス業界において義理堅さと情の厚さからレスラー達から強い信頼を得ていた昔気質の男だった。団体の窮地を救ってくれたジャン=リュックに感謝していたし、ギャラや地位だけではなく生活面のサポートを含めた最大限の特権を彼に与えた。それでもシカゴで頭角を現してからジャン=リュックにつきまとっていた、負かすことが出来ない、という問題は逃れようがなかった。マクレーンはレスラーでないから団体のトップにジャン=リュックが君臨するのは構わないのだが、勝ち続ければマンネリ化し、客にそっぽを向かれるかもしれない。しかしマクレーンは天才的なアイデアでこの問題を回避することに成功する。ジャン=リュック・ジャイアントを世界中のプロモーターに貸し出したのである。
たいていの場合において、地元のヒーローであるレスラーは善玉であり、よそから乗り込んできた悪役レスラーと対峙する。悪役レスラーは各地を転戦し、それぞれの地元のヒーローと戦うわけだが、自らの強さを誇りつつも対戦相手のヒーローらしさを引き出さねばならない分だけ、高度なテクニックを要求された。通好みのプロレスファンから高い評価を得ているレスラーの中に各地を転戦した悪役が多いのもそのためだ。しかしマクレーンがジャン=リュックに与えたのはそれとはまったく違った。古今東西のプロレスの世界で彼しか務まらなかった役回り「旅をする善玉」レスラーとしてジャン=リュックを貸し出すことにしたのだ。
世界一の大巨人が突然にやって来た、というインパクトが重要であるため事前の宣伝は控えめか、もしくはまったく知らされない。会場ではメインイベントの最中、地元のヒーローであるレスラーが悪役と対戦中であるが、旗色が悪い。悪役レスラーはセコンドとして連れてきた数人のレスラーとチームになって地元のレスラーに攻撃を加えている。ヒーローは完全に痛めつけられ敗色濃厚、と突然、照明が落とされ場内は真っ暗に。一条のスポットライトが花道に向けられると、そこにはジャン=リュック・ジャイアントが立っている。大歓声に包まれながらのっしのっしと歩き出し、トップロープを跨いでリングに入る。悪役たちは恐れおののきながらも、一緒に善玉をやっつけてやろうぜ、というようなジェスチャー。ジャン=リュックはうんうんと頷く。悪役たちが安堵の表情を見せたのも束の間、ジャン=リュックの巨大な拳が彼らに振り下ろされ、リング外に弾き飛ばされる。会場は興奮の坩堝と化す。ジャン=リュックは地元のヒーローを助け起こし、握手を交わして一緒に戦っていこう、という仕草をする。翌日からはジャン=リュックと地元のヒーローがタッグを組み、悪役チームと対戦し、主にジャン=リュックの活躍で悪役たちを蹴散らす。そんな試合を四、五回行ったのち、ジャン=リュックは去っていく。別の土地へ赴き、同じような試合をこなしていく。これが旅をする善玉の役回りだった。このスタイルならジャン=リュックが強すぎて負かすのが難しい問題を回避できた。一ヶ所に留まらないからマンネリ化することもない。その土地のファンにしたら、ジャン=リュックがやってくるのは一年に一度か二度だから世界一の大巨人という希少性も保たれ、万事いいことずくめだった。
ジョン・マクレーンの支配下にあった八年間がジャン=リュック・ジャイアントのプロレスラーとしての全盛期であった。この間に彼が旅したのはアメリカ国内のみならず、日本、メキシコ、カナダ、プエルトリコ、アルゼンチン、オーストラリア、イギリス、イタリア、西ドイツと世界規模だった。ニューヨークでの試合もこなしたが、怪我から復帰したブルーノ・カルネラを脅かすのではなく、サポート役に回ることが多かった。たまにメインイベントで両雄が戦うことがあっても、ジャン=リュックがレフリーに暴行を働いての反則負けがほとんどだった。
「ジャン=リュックは自分の地位をよく分かっていました」と語るのは長年ジョン・マクレーンの秘書を務めていたステイシー・ヌバクだ。「本当なら勝ったり負けたりするプロレスの世界から自分が外れている、というのは彼も悩んでいたようです。だからオフィスにあらわれる度に、ボス、次はどこへ行けばいいんだい、と尋ねていました。世界を旅するのは嫌っていなかったと思います」
もっとも世界の大巨人、ジャン=リュック・ジャイアントの活躍はプロレスの世界にとどまらなかった。エンターテイメントの中心であるニューヨークに軸足があるならショービジネスの業界からお呼びがかかるのは当然だった。ニューヨーク時代のジャン=リュックは計五本の映画に出演し、独自の存在感を見せつけた。台詞はあっても二言三言の端役がほとんどだったが、スクリーンに登場すれば人目を引かないわけがない。さらには当時大人気だった女性歌手のジェシカ・ルーバーのミュージックビデオにも出演した。彼女はジャン=リュックの肩の上に腰掛けた状態で全世界で二千五百万枚売り上げた大ヒット曲『父さん、私はもう子供じゃないの』を熱唱した。マジソン・スクウェア・ガーデンでの彼女のコンサートにはジャン=リュックもステージに上がり、ビデオと同じように彼女を肩の上に担いだ。
「ジャン=リュックに来てほしいという依頼は世界中から引きも切らずでした」とステイシー・ヌバク。「WHOがいま現在、これだけ大きくなったのはジャン=リュックの貢献が大きいと思います。お金を稼いだというだけでなく、彼がアメリカのプロレスを世界中に広めたんです」
その頃、ジャン=リュックはギネスブックが選出する「世界でもっとも稼いでいるスポーツ選手」のランキングで第三位に入っている。ニューヨークのリングに上がるのは年に十回ほど、それ以外はほとんど世界中をサーキットし、旅をする善玉という彼以外に務まらない世界でただ一人のレスラーとして活動する。しかしたった一つだけ例外があった。日本だった。この地だけ、ジャン=リュックは地元のヒーローと共闘せず、よそからやって来た悪役レスラーとしてリングに上がっていた。悪役というよりも、デビューしたばかりのモントリオール時代のような身体が大きくて不気味な怪奇派レスラーとしての役回りだった。
「もちろんそれは彼自身が望んだものだ」とマッスル山下は語る。「彼ほどのメインイベンターになればどんな要求もプロモーターにすることができた。しかし、ジャン=リュックはなぜか日本では悪役をやりたがった。私も不思議に思って何度か彼に尋ねたよ。でも「どこに行っても同じじゃ飽きるだろう」と言うくらいで、それが本心がどうかは分からない。ただそんな世界的な有名人になっても子供みたいなイタズラはよくしていたよ。それに日本を発つ前は私の家にやってきて浴びるようにビールを飲むのが毎度のことだった。瓶のケースで五箱は毎回空けるものだから、近所の酒屋には「次にジャン=リュックさんが来るのはいつですか?」なんてよく聞かれたよ。それに彼はうちの娘を本当に可愛がっていた。銀座に繰り出しては娘を肩車して歩行者天国を歩いたもんだよ。テレビの中で大暴れしている悪役レスラーがそんな子供を可愛がっているもんだから、まわりは不思議そうに眺めていたな」
「私、テレビのプロレス中継ってほとんど見てなかったんです」と語るのはマッスル山下の娘の洋子だ。「小さな頃にお父さんがテレビの中で頭から血を流しているのを見て泣いたことがあって、それ以来、見なくなったんです。でもジャン=リュックは本当に私のことを可愛がってくれて、自分の娘のように接してくれたんです」
1984年ごろから、ジャン=リュックを取り巻く状況は変わりはじめる。WHOの看板レスラーだったブルーノ・カルネラが度重なる怪我でついにキャリアを終え、リングを去ることになったのだ。ジョン・マクレーンは「しばらく東海岸を中心に活動してくれないか」とジャン=リュックに頼むしかなかった。
「それはかまわない」とジャン=リュックは答えた。「しかし試合をするのは週に一回程度に限らせてほしい。少しペースを落としたいんだ」
世界一の大巨人の身体にも少しずつ無理が溜まってきていた。際限なくアルコールを飲み、食べるといった不摂生に加え、まともなトレーニングからも離れていた結果、不健康極まりない身体になっていた。ジャン=リュックの血液検査をした医師は「こんな数値、信じられない」と絶句したし、右膝の軟骨は磨り減り、鉄板が入ったブレースで締め付けていないと痛くてとても歩けなかった。
「少しは体重を落としたほうがよくない、と言ったことはあるんです」とステイシー・ヌバクは語る。「でも、うん分かってるよ、と言うだけでした。彼は暴飲暴食を止めることはなかったし、体重を落とすためのトレーニングも出来る身体ではありませんでした。ただリングに上がるのは嫌ってませんでした。そこが彼の居場所だったんです」
以前ほどリングの上でプロレスが出来なくなっていたジャン=リュックのためにジョン・マクレーンは新たな対戦相手を招聘する。ビッグ・ジム・ガーランドは25歳、フットボールからプロレスに転向したばかりの巨漢レスラーだった。身長205センチ、体重160キロ、平均からすれば立派な巨人レスラーだが、ジャン=リュックと向き合うと見劣りする体格であり、レスリングはからきし出来なかった。ジョン・マクレーンはレスリングの上手い技巧派のレスラーよりもビッグ・ジムのような相手のほうがやり易いだろうと配慮したつもりだったが、逆効果になってしまった。どんなレスリングファンにも大巨人ジャン=リュック・ジャイアントが衰えてきているのがありありと判ってしまったのだ。
ある夜、フィラデルフィアの会場でジャン=リュックはビッグ・ジムと対戦中に意識が遠のいていくのを感じた。ビッグ・ジムのパンチは重く、ずしりと身体にこたえるが、長年のレスリング生活で受けてきた衝撃に比べればたいしたことはない。しかしビッグ・ジムの拳がジャン=リュックの厚い胸板に振り下ろされたその時、ジャン=リュックはふらふらとよろめき、マットに崩れ落ちた。一時的に脳に血液が行かずに失神し、リング上に長々と伸びてしまったのだ。試合は中断され、リングにはドクターやスタッフが次々に駆け上がり、ビッグ・ジムは頭を抱えるしかなかった。
幸いにも20人がかりで運び込まれた控え室でジャン=リュックは意識を取り戻す。彼は心配そうな人々の顔を眺め回し「あれ、試合は終わったのかい?」と尋ねた。自分の身に何が起きたのかまったく理解していなかった。医師による精密検査の結果、不整脈が失神の原因と診断されたが、「しばらく休んだほうがいい」というマクレーンのアドバイスも聞き入れることはなかった。ニューヨーク時代の最後の一年、ジャン=リュックはあまりにもひどい醜態を晒すことになる。以前はジャン=リュックの活躍を讃えていたメディアも手のひら返しで辛辣な言葉を浴びせた。「動く産廃の山」とか「ぶざまな大男、ニューヨークの巨大な道化」と、ひどい言われようだった。ジャン=リュックが五度目の失神でリングに倒れるとジョン・マクレーンも最後通牒を渡さざるを得なかった。
「ジャン=リュック、今夜で君との契約を解除する。もちろん、違約金は支払う。残念ながら、こうするしかない」とマクレーンは言った。「リングの上で死人を出さない、これが私のプロモーターとしてのモットーなんだ。少なくとも、君はしばらくリングを離れるべきだ」
「そうだね、ボス、そうするよ」
「あの時のジャン=リュックの寂しそうな顔は忘れられません」とステイシー・ヌバクはしんみりと語った。
ニューヨークを去ったジャン=リュックはミネアポリスの郊外に広大な牧場を買って移り住み、プロレスのリングから遠ざかる。ミネアポリス大学付属病院の心臓外科には何度も通い、診察を受けていたが、激しい運動は控えたほうがいい、という言葉が一番のアドバイスだった。心臓外科医は「最適なのは心臓移植です。しかしあなたの胸に収まる心臓を持つドナーはまず現れないでしょう」と言い、ジャン=リュックもうなだれるしかなかった。
約二年間、ジャン=リュック・ジャイアントはプロレスのリングから離れていた。トレーニングこそ出来なかったものの食事療法と投薬、アルコールを控えることで少しずつ以前の状態を取り戻しつつあった。膝の状態は完治にはほど遠く、牧場内を移動する際は四輪バギーを使っていたが、失神することはなくなっていた。
「ある日、いきなり家に電話がかかってきたんだ、ジャン=リュックから」とマッスル山下は語る。「なにかと思ったら、日本でプロレスをしたいんだ、君からかけあってくれないか、ギャラはいくらでもいいんだ、っていうわけさ。国民プロレスはもう倒産してて僕も別の団体にいたんだけど、社長に話してみたよ」
アメリカ国内で試合をする場合、レスラーは自分で車を運転して会場に向かわなくてはならない。どんなトップレスラーも前座レスラーもそれは同じこと、あたりまえの日常であり、ジャン=リュックもそうしていた。しかし日本ではそれが違った。外国から招聘されたレスラーも日本人レスラーも一台の大型バスに同乗して日本国内各地を転戦するのが一般的だった。フルタイムのプロレスラーとして働けないジャン=リュックにはそんな日本方式がやりやすかった。この時期のジャン=リュックはミネアポリスの自宅でくつろいでいるか、日本でプロレスをしているか、そのどちらかだった。三カ月に一度、約一週間の日本でのサーキットに帯同し、世界一の大巨人としてリングに上がっていたが、その役どころは以前の悪役ではもうなかった。当時、マッスル山下が所属していた汎日本プロレスでは盛りの過ぎたレスラー達が繰り広げるのんびりしたプロレスが客たちに受けていた。メインイベントこそ若いレスラーたちが激しく闘う白熱したプロレスで盛り上がっていたが、その前座試合は40代や50代、中には60歳に手が届く往年の名レスラーたちによるユーモラスなプロレスを行っていて、客の笑いを誘っていたのだ。ジャン=リュックもそんなコメディレスリングの特別ゲストのような立ち位置でリングに上がり、善玉チームの一員として活躍した。膝が悪いためのっしのっしと歩いてマットに倒れこみ、ただその巨体で相手を押さえつけるのがフィニッシュ技だったが、全盛期にはほど遠いそんな動きでも日本の観客は拍手を送った。世界一の大巨人は存在だけでまだ高い商品価値があった。
「その頃、私は大学を一年休んでアメリカに語学留学に行ってたんです」とマッスル山下の娘の洋子はそう語った。「場所はシカゴでしたけど、毎週末には必ずジャン=リュックの牧場に行って過ごしていました。といっても百キロ以上は離れているから結構遠いんですけど、いつもジャン=リュックが学校の前まで迎えにきてくれて、学校のみんなは驚いてました。ジャン=リュックが暮らしていた家の隣に牧場の管理人さんと家政婦さんの一家の家もあって、みなさん、私によくしてくれて、夕食はジャン=リュックの家でみんなで食べるのが習わしでした。ある時、ジャン=リュックが私に言ったんです、「ヨーコ、私の娘にならないか」って。私は「もう私はあなたの娘よ」って言ったんですけど、今思い返したら、あれは軽口なんかではなくてジャン=リュックの本心だったんだと思います。本当、悪いことしちゃったな、と」
洋子はそう言って目頭を押さえた。
ジャン=リュック・ジャイアントについて書かれた本の中には彼には黒い髪の娘がいた、と記述されたものがあるが、おそらく洋子のことを勘違いしていると思われる。IMF時代に同棲していた女性がいたのは確認できたが、子供がいないのは確実だ。プロレスラーとして活躍していた彼の人生のほとんどは世界中を飛び回っていたため、家庭を築くのは難しかったようだ。
その知らせは日本滞在中のジャン=リュックにもたらされた。長く続いたシリーズ戦の最終日、東京での試合を終えてホテルに戻ったばかりのジャン=リュックを追いかけるように訪ねてきたマッスル山下からだった。「さっき会社に電話があった。君のお父さんが亡くなったそうだよ」
「そうか、判ったよ」
「飛行機のチケットも手配した。急げば夜の便に間に合う」
「ああ、急ごうか」とジャン=リュックは解いたばかりの荷物をまとめながら言った。
父親のピエールは大腸癌を患い、二年近く闘病中だった。三カ月前からホスピスに移って終末医療の最中であったため、ジャン=リュックも予感めいたものはあった。
「そう、だからジャン=リュックはとても落ち着いていたよ」とマッスル山下は語る。
東京からの直行便こそなかったものの、ニューヨーク乗り継ぎで20時間後にはモントリオールの実家に戻り、父親と無言の対面をはたした。翌日に葬儀を控えた夜、ジャン=リュックはモントリオールに戻る際に常宿にしていた実家から車で五分のホテルの部屋に入った。最上階のスイートルームであり、キングサイズのベッドに巨大なジャグジーも備えていたため、使い勝手がよかった。
「あなたがそんなに落ち込んでいてもお父さんは喜ばないわ」と姉のジョゼは言い、背伸びをしてジャン=リュックの頬を触った。
「ああ、判ってるよ、姉さん」
「元気を出しなさい、あなたの好物を作っておいたから」とジョゼはテーブルの上に大きな皿を置いた。「コケモモパイ、好きだったでしょ。朝ご飯にでも食べて」
「ありがとう、そうするよ」
「じゃあ、朝の九時に迎えに来るから」
ホテルの部屋で一人になったジャン=リュックは医師から処方されていた心臓の薬を飲み忘れていたのに気づく。父死すの知らせを受けた日本から、頭から抜け落ちていた。ジャン=リュックがベッドの上に開けたスーツケースの中を探っていた時、それはやって来た。胸に締め付けられるような痛みが走り、思わずベッドに両手をついた。今までの意識が遠のくような失神の時とは違って、この胸の痛みは初めてだった。ああ、俺はもう駄目かもしれない、とジャン=リュックにそんな弱気な思いが生まれた。世界を旅し、何千、何万といった観客の前で闘い、日常的に殴られ、蹴られ、踏みつけられてきたジャン=リュックでも、初めて闘う敵だった。ジャン=リュックは人を呼ぼうとよろよろと進み、壁の電話を取ろうとした。しかし、その敵は今まで対戦したどんなレスラーよりも強く、この大男の前に立ちはだかった。頭にガツンと強い一撃が来た。悪役レスラーが椅子で頭を叩いてもびくともしなかったジャン=リュックだが、その一撃はあまりにも強く、彼は身体を二つに折り、膝をついた。ジャン=リュックは四つん這いになりながらも少しずつ前に進んだ。しかし敵の攻撃は止まなかった。今までジャン=リュックが拳を振り下ろせば倒せない相手などいなかった。足を上げて軽く蹴るだけでどんな大男も弾け飛んだ。しかしこの敵はジャン=リュックを手玉に取った。ジャン=リュックが手を前に伸ばすとテーブルの上の皿に触れた。コケモモパイが皿ごと床に落ち、転がった。コケモモパイの匂いが鼻の奥に広がる。すると彼の胸にある思いが甦ってきた。忘れていたかもしれない、子供の頃のことだった。まだ幼き日、母の腕に抱かれて眠った冬の日のことを。
ジャン=リュックは大きな身体を床に横たえた。もう彼には前に進む力は残っていなかった。しかしジャン=リュックの心は暖かい気持ちで満たされていた。この敵には勝てそうもない、彼の本能がそう告げていた。どんなレスラーも負かすことが出来なかった規格外の大男がギブアップ負けを受け入れようとしていた。母さん、それでもいいよね、とジャン=リュックは最後にそう考えていた。
ジャン=リュック・ジャイアントこと、ジャン=リュック・ルマール、享年47歳だった。今なお人々の記憶から消えることのない希代の名レスラーであり、世界を股にかけた心優しき大巨人、ジャン=リュック・ジャイアントはホテルの部屋で一人寂しく永遠の眠りについた。父親と母親が待つ天国へ、旅立って行ったのだった。
(了)