旧島崎藤村邸 大磯ツアー③
日本ペンクラブ初代会長となった島崎藤村。
母校明治学院大学の大先輩であります。
萬事閑居簡素不自由なし
澤田美喜記念館を出て東海道線の線路沿いに南西へ歩き、味わいのある路地を抜けていくと、そこに旧島崎藤村邸があります。
島崎藤村が晩年の約2年間を過ごした家です。
藤村はここを「靜の草屋」と呼んでいました。
生涯で最も気に入った書斎がありました。
素朴な冠木門をはいると、割竹垣にかこまれた小さな庭、そしてわずが三間しかない平屋建てに家は、文豪の家にはあまりに簡素なものに見えます。
お気に入りの書斎はお茶室のような造りで、藤村は「この書斎を離れるときは自分がこの世から離れるときだ」と言っていたそうです。
島崎藤村ってどのような作家だったのでしょう・・・?
1872年(明治5年)に現在の岐阜県中津川市馬籠で生まれました。
幼いころから学者である父に勉学を教わっていて、10才になる前に上京し、進学予備校を経て、1887年にできたばかりの明治学院普通部本科に進学しました。
北村透谷と親しくなり、同人誌に作品を発表していき、20代半ばで最初の詩集「若菜集」を発表。
近代日本浪漫主義を象徴する詩人となっていきました。
やがて小説家としても頭角を表し、「破戒」「春」「新生」などの自伝的な作品において自然主義文学の方向を決定づけます。明治維新の動乱期を生き抜いた父をモデルにした「夜明け前」で藤村は小説家としての地位を確立しました。
なぜ大磯に住むようになったのでしょう・・・?
昭和18年8月21日 最期の日
藤村の死を看取った静子夫人が甥に宛てた手紙
(中央公論 昭和18年10月号『一人の甥に与うる手紙』より)
島崎藤村 妻 静子さんはどんな女性だったのでしょう
1896年(明治29年)生まれの静子さんは藤村より24歳年下でした。
女学校卒業の年にキリスト教徒になりました。
婦人雑誌「処女地」の編集に参加した際、藤村と知り合い、昭和3年に藤村と結婚。
藤村が亡くなった後に、「ひとすじのみち」で藤村の思い出を書き綴った随筆家でありました。
藤村亡き後、箱根に疎開するまで静子夫人はこの家に一人で住んでいましたが、昭和24年より作家の高田保が昭和27年に亡くなるまでこの家で過ごしました。
その後、静子夫人はこの家に戻り、昭和48年に亡くなるまで暮らしました。
近所に住む女性は「この庭に来てよく遊んでいたこと、静子夫人からお菓子をいただいたこと」を話してくれたと案内係の方が教えてくれました。
いつも黒い着物をお召しになっていたそうです。
「大島紬かしら・・・」とふと私が呟くと、「きっとそうだと思いますよ」とにっこり。
このとき、写真の中の静子さんは目を細めて、私と目が合いました。
とても身近に感じました。
並んだ島崎藤村全集の一冊をとって見せてくださったのは、絶筆となった「東方の門」でした。
何度も訪れている友人も、この日の長く、丁寧な対応には驚いたようです。
静子さん、本当に素敵な方ですね。
余にふさわしき閑居なり
藤村も16歳のときに受洗してキリスト教徒となっていましたが、許されない恋、教え子との恋など経験をしたのちにキリスト教からも離れていきます。
そして、冬子と結婚し、子宝にも恵まれました。
しかし、極貧生活の中で三女、次女、長女の順に栄養失調で早逝。
妻の冬子も眼を悪くし、逝去。
「破壊」の成功で経済状況はよくなったものの、藤村一人で残された子供4人育てるのは無理があり、次兄の次女こま子が子供の世話をするために同居しました。
なんと、藤村はこま子に手を出して、妊娠させてしまうのです。
困り果てた藤村、留学という名目でフランスに逃亡してしまうのです。
兄には逃亡中の船の上からことの顛末をしたため手紙を出しました。
あらら、なんだかひどい話です。
3年後、ほとぼりが覚めた頃に帰国し、その後、静子と再婚。
ところが、またまた、こま子に手を出してしまったのだから驚きです。
そして、私小説「新生」で赤裸々に心情を書き上げたのです。
兄は激怒を通り越して絶縁。当たり前ですよね。
当然、こま子も藤村の元を去りました。
なんとも、すごい人生。
何度、絶望しても、決して失望せずに、ひたすら人生を走り続け、そして最期に辿りついた、「靜の草屋」
若く、美しく、優秀な妻と過ごした2年余りのこの家は、藤村にとって、「余にふさわしき閑居なり」だったのでしょう。
藤村夫妻の眠るお寺
旧藤村邸から歩いて10分ほどのところにある地福寺。
境内の梅を藤村が大変気に入り、生前から墓所として希望していました。
晴れ女の私にしては珍しいくもり空。
今にも雨が降ってきそうな一日でしたが、一度も傘をさすことはありませんでした。
おまけ💕 島崎藤村作詞 明治学院校歌
卒業生 THE ALFFEE が歌ってます