📽 われ弱ければ 矢嶋楫子伝
使命とは、命を使うことです。
自分の命は、自分で使うのです。
三浦綾子原作、山田火砂子監督、常盤貴子主演映画
「われ弱ければ」を横浜シネマリンで見てきました。
原作は1989年に初版。
私が読んだのは
ちょうど息子たちが自由学園に通っているときで、
女子学院の教育のもとにある
矢嶋楫子先生の生き方に感銘を受けました。
その割には記憶は薄れていたので、
映画を先入観なしにみることができました。
映画にかける監督の思い
原作 「われ弱ければ」【はじめに】より
三浦綾子さんは小説「われ弱ければ」のはじめにで、このように書いています。
矢嶋かつとして生まれ
楫子は矢嶋家の六女として生まれました。
男尊女卑の強い土地柄、
男子を望む期待が大きい中、
1833年4月24日に産声を上げたのは女児でした。
みんながっかり。
お七夜が過ぎても、この女児には名前がありませんでした。
妹を憐れに思った10歳になる三女の順子が「かつ」と名付けました。
なんとも悲しいエピソードですが、
かつは家族から、「渋柿」と言われて
大きくなりました。
笑顔のない孤独な少女時代を送り、
疎外された淋しさや、悲しさ、喜びさえも、
じっくり一人で味わい、
一人で耐えるという事を学んでいきました。
25歳の時に二度の酒乱で
離婚歴がある子持ちの林七郎と
長兄にすすめられるまま、
気の乗らない結婚をしました。
なさぬ仲の子供3人と自分の子供3人の母となり、
10年が過ぎていきます。
極度の疲労と衰弱で、
かつは視力はだんだん落ちていきました。
結婚とは何かと考える日々を送るうち、
ある夜決定的な事件が起きます。
いつものように酒に酔った七郎が小柄を抜いて、
かつが抱いていた赤ん坊を目がけて、
投げつけたのです。
庇ったかつの二の腕に小柄が刺さり、
血が流れました。
かつはそのまま赤ん坊を抱いて、
実家に帰り、
翌日迎えにきた夫にも会わず、
ついに黒髪を根元からぶっつり切って、
自分から離縁を求めたのです。
女から夫に三行半を突きつける!
前代未聞の大スキャンダルでした。
矢嶋楫子として生きる
こどもを抱えて、
姉の家に居候をして5年が過ぎたころ、
江戸改め東京で病を得た長兄の看病に出向くことで
故郷と訣別したかつは自らを
「楫子」と名乗るようになりました。
船の楫のように行先を自らが導くものに
なりたいと決意しました。
自立して生きるために
教師の職を得た楫子は
優秀な小学校教諭となります。
ところが初めて恋に落ち、
妻子ある鈴木要介との間に子を成します。
もちろん許される事ではありません。
人目を忍んで女児を出産し、
里子に出します。
そして、
ミッションスクールの女性宣教師ミセスツルーに
見出され、教育者としての道を歩みます。
酒乱の夫に自分から離別し、
酒乱の親の酒代の代わりに売られて行った教え子を憂い、
不義の子を生んだという一事を胸に秘め、
後に日本矯風会の会頭として
アメリカに渡り、
大統領とも接見した楫子。
「只一條に、慣れぬ道ながら救いの道を辿りました」
楫子のこの言葉の深さ、謙遜さ、苦しさを思います。
われ弱ければ
三浦綾子は最後に書いています。
90年の人生を2時間で描くには
無理はありますが、楫子のエッセンスを見事に描き切ったと
山田火砂子監督の熱意に敬意を表します。
地味な映画ですが、
お近くの劇場、集会場で上映されたる時
ぜひ足を運んでください。
人生観が変わるかもしれません。
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