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⛩️武蔵一宮 氷川神社⛩️

去る2月11日建国記念日に大宮氷川神社に参拝しました。

雲一つない晴天に恵まれ、横浜駅から東京上野ラインに乗って大宮駅へ。

高校時代を大宮で過ごしたユーミン友達が駅で待っていて、案内してくれてました。

大宮氷川神社の参道は「氷川参道」と呼ばれ、中山道から南北に約2kmも続いていて、
日本一長い神社参道として知られています。

二の鳥居



参道には一の鳥居からありますが、今日は車なので、

途中に駐車場があるので、そこに車を止めて、まずはひと休み。

有名な氷川団子 
お醤油の香ばしい匂いがたまりません。
甘酒も一緒にいただきます。



三の鳥居


さて武蔵の国一宮氷川神社とはどんなところでしょうか。

御祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)

由緒
氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年第五代孝昭天皇の御代3年4月未の日の御創立と伝えられます。第十二代景行天皇の御代、日本武尊は東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっております。第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって当社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります。第四十五代聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、第六十代醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました。武家時代になっても、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、社殿の再建や造営を行っております。

氷川神社HPより

社名の由来
氷川神社の社名は二つの説があります。
一つは、「氷川大宮縁起」や『風土記稿』に、出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝わるとある事から、出雲の大河である斐伊川にちなむというものです。
もう一つは、鎮座地「高鼻」は、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり古代からの湧水地で、湧き出る清冽な泉は原始の氷川祭祀の対象で、古語で霊験あらたかな泉を表す氷川が社名となったというものです。
また氷川神社名の神社は当社から分祀され武蔵国を中心として北海道から鹿児島まで約280社あり、荒川の流域に多く鎮座しております。

氷川神社HPより


御祭神 
須佐之男命 稲田姫命の神話 八岐大蛇退治
須佐之男命が出雲の国の簸の川の辺りにくると、娘が一人、年老いた両親と泣いていました。娘の名前は稲田姫命。親の名は大山祇命の子で、足摩乳命、手摩乳命といいました。そこで須佐之男命が理由を聞くと、この山奥に八俣の大蛇という頭が八つもある怪物が住み、一年に一度この里にでてきては、娘を一人ずつ食べるというのです。そのため八人もいた娘も、今では稲田姫命だけになってしまいました。話を聞いた須佐之男命は、大蛇を退治することにし、まず、家の周囲に垣根をつくり、そこに八つの入り口をつけ、入り口ごとに強い酒を入れた大きな甕を置きました。しばらくすると辺りが急に暗くなり、不気味な物音とともに、大蛇がやってきました。それはそれは恐ろしい姿で、八つの頭にはギラギラと真っ赤な眼が気味悪く光っていました。大蛇は甕をみるや、ガブガブと勢いよく酒を飲みはじめました。須佐之男命は大蛇にそっと忍びよると、次々と切り倒して見事退治しました。最後にシッポを切ったとき、りっぱな剣がでてきました。須佐之男命は大蛇のシッポから出てきた剣を天照大御神さまに奉り、その後長く稲田姫命とこの地で暮らしました。

氷川神社HPより

御祭神 大己貴命の神話 稲葉の白兎
大己貴命にはたくさんの兄がいました。それぞれが稲羽の国の八上比売に求婚しようと思い、荷物を大己貴命に持たせて連れて行きました。道の途中で赤裸にされた兎が伏せっていたので、兄神は「海の潮をたっぷり浴びて、風に当たり、日を浴びれば治る」と教え、兎がそうすると、傷はますますひどくなりました。遅れて来た大己貴命が兎に泣いている理由を聞くと「私は隠岐の島に住んでいたのですが、海を渡るのに、海の鮫にどちらの一族が多いか比べよう、私が数えるから一族を呼んでくれと言い、陸地に着くところで、うっかりだましたことを言ってしまい、鮫に毛皮をはがされてしまいました。それで泣いていたら、あなたの兄神にだまされて、私の体はすっかり傷ついてしまいました」と言うので、大己貴命は「すぐに河口に行って真水でよく洗い、蒲の花を蒔き散らした上に寝転がれば治る」と教え、その通りにすると、元の体に治りました。そこで兎は大己貴命に「八上比売はきっとあなたと結婚するでしょう」と予言し、その通りになりました。

氷川神社HPより
水の神、航海の神である宗像三女神をお祀りしてます。
神池にかかる橋の向こうに桜門
立派な桜門


舞殿
拝殿

休日とあって境内にはたくさんの老若男女がお参りに来ていました。

気持ちの良い気が流れる氷川神社。

横浜生まれのわたしは横浜港のシンボルとして
山下公園に停泊している氷川丸をみて育ちました。

この名前は氷川神社から名付けられ、
船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られています。

氷川丸が誕生したのは1930年(昭和5年)。
日本の開運の夜明けのときでした。
日本とアメリカを結ぶ航路にはシアトルとサンフランシスコがあり、
アメリカに巨大客船に対抗するため、
日本郵船はシアトル航路に氷川丸、日枝丸、平安丸。 
サンフランシスコ航路に浅間丸、龍田丸、秩父丸を投入しました。
豪華客演として運航されていた際には多くの著名人が乗船。
豪華な食事と行き届いたサービスは大好評でした。

ところが戦争が起こり、戦況が激化すると海運省に徴用され、
外装を改装して、病院船となり、
戦後は引き上船となりました。
氷川丸は戦時中には3度の触雷、戦闘機からの銃撃、
潜水艦との遭遇から生き延び、
敗戦後は戦後賠償として差し押さえになるところを生き延びたことから
「強運の船」と言われています。

わたしはこれは氷川神社の御祭神の御守りがあったからだと思っています。

日本人を守ってくれて本当にありがとうございました。

初めて氷川神社にお参りにして、感謝をお伝えできて心が晴れ晴れとしました。

2400年以上の歴史をもち、大いなる宮居として大宮の地名の由来にもなった屈指の古社。

2025年2月11日に行くことができて、よかったと思いました。


#大宮
#武蔵一宮氷川神社
#氷川神社

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