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🌹薔薇咲く山下公園造園秘話 〜木村喬氏〜


薔薇薫る山下公園

気温21℃  爽やかな風の吹く山下公園に行ってきました。

満開の薔薇の花、
薔薇の薫りにうっとり、
至福の時を過ごしました。




現在、ガーデンネックレス横浜開催中ということで、
混雑してるかなと思いきや、
平日ということで人混みもなく、
ゆっくりお散歩できました。




木村純さんのボサノバを、
まどろみながら聴く「寝ながらボッサ」という
ゴージャスな昼下がりのひとときがあるので、
長居はできませんでしたけど、
氷川丸まで歩いて薔薇を堪能しました。



木村純さんは、
サラリーマン出身の異色ギタリストです。

純さんのストーリーには驚かされることが多いのですが、
私がほんとにびっくりしたのは
山下公園を設計したのは
純さんのお祖父様と聞いた時でした。


山下公園は大正12年(1923年)の関東大震災の復興事業として、
日本で最初の開設された臨海都市公園です。
震災に伴って発生した大量の廃棄場所として
横浜市山下町海岸地先の海面が指定され、
内務省復興局の直轄事業の下で公園用地が造られました。
木村純さんのお祖父様木村喬氏が
内務省の役人として横浜に派遣されきたのです。

山下公園の歴史



「外国人居留地と海岸通り」

臨海公園としての山下公園は、外国人居留地に設けられた海岸通りにその原点を見ることができる。横浜開港後、現在の山下町一帯にあたる山下居留地の海岸部は、居留外国人向けのクラブやホテルなどが建ちならぶ海辺のプロムナード(散歩道)として整備された。明治中期以降、貿易港として港湾設備の建設が進むなかでも、海岸通りは人びとが直接海と接することのできる場所であった。

ハマフェスより引用



都市計画のなかの公園」

明治後期になると、欧米の諸都市で実践されていた都市計画の考え方が紹介されるようになり、横浜市でも明治40年代から市区改正(都市計画)のための調査が始まった。大正8(1919)年の都市計画法の制定を受け、横浜市には市区改正局(のち都市計画局)が組織されるが、この時点ではまだ都市公園の具体的な計画を立案するには至っていない。山下公園の原型ともいえる海岸通りの前面を埋め立てる計画が初めて登場するのは、関東大震災直前の大正12(1923)年8月のことである。

ハマフェスより引用




「廃墟から生まれたプロムナード」

大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で、横浜の市街地は壊滅的な被害を受けた。横浜市では震災直後から都市再建のための復興試案の作成に取りかかるが、そのなかで震災前に挙がっていた「海岸遊歩道」の計画が再浮上する。横浜市は市街地に堆積する大量の瓦礫処理のため、遊歩道の予定地である海岸通りの前面を瓦礫処分地に指定し、これがのちの山下公園の整備へとつながっていった。

ハマフェスより引用







「山下公園の誕生」

横浜市が提出した復興計画案は、予算が大幅に縮小されたことで実施されることはなかったが、個別の計画のうち「逍遥道路」の一部であった海岸遊歩道が、復興公園のひとつとして実現することになった。公園の名称として横浜市は「海岸公園」を提案するが、最終的には政府案の「山下公園」に決定した。公園の設計は内務省復興局が手がけ、かつての海岸通りを拡幅し、あらたな海辺のプロムナードとして長さ800mにおよぶ山下公園が誕生した。


                          ハマフェスY165より引用





その後の歴史も書かれてます ↑

木村喬氏と遠藤新氏

木村喬さんはフランク・ロイド・ライトの愛弟子である遠藤新氏と
東京帝国大学建築科で共に学びました。

横浜市鶴見区にあった木村邸は遠藤新設計のよるものでした。
残念ながら、現存していませんが、
木村純さんの幼い時の写真にライト風の佇まいをみることができます。


木村喬氏の胸像


かつては山下公園にあった木村喬氏の胸像。
今は公園にその姿はなく、
レプリカが木村純さん宅にひっそりと
おやすみです。

写真を送っていただいて、拝見して、
眉目秀麗・・・という言葉を久しぶりに思い出しました。
胸像って大概がお年を召した方のものなので、
あまりにお若くいらっしゃる・・・

純さんに伺えば」20代の時とか。
お若くして、内務省の重職に就かれたのですね。

世界の臨海公園の中でも
メルボルンの公園をお手本にしたとか・・・

それまで「公園」というカテゴリーがなかった日本。
横浜に山下公園、野毛公園、神奈川公園ができていきます。

木村喬氏は野毛公園や、
関東大震災復興行事として建設された山手隧道も手がけたそうです。

記録によると、山手隧道は
内務省復興局の設計、間組の施工でした。

木村喬氏は横浜の復興事業の後には
京都に10年以上住んで、
市街地整備にもご尽力されたそうです。

大活躍ですね。

純さんのご尊父 木村哲さんは
木村喬さんの貴重な資料を
神奈川新聞に寄贈したそうで、
2003年4月18日に記事になっています。

写真もたくさんあったみたいです。

まとまった資料は今、何処?
読んでみたいなあと思います。

100年後
美しい薔薇が咲き薫り、
たくさんの人が港に親しみ、
楽しい思い出をたくさん作る、
希望に満ちた未来を
喬さんは夢見ていたでしょうか。


山下公園にお散歩に行かれたら、
この下には負の遺産の瓦礫があるけれど
そこに希望を持った人たちの手のよって
未来が切り開かれたということを
ちらっと思い出してください。


横浜には薔薇がよく似合う・・・




木村純さんの演奏をどうぞ

寝ながらボッサでの木村純さん

ガーデンネックレス横浜2024

3月23日から6月9日まで、横浜各地で開催中です。
薔薇は今週末が盛りでしょうか。




#山下公園
#関東大震災復興事業
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#木村純
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