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松代へ ❸ 童謡のまち

『童謡のまち松代』


日本に「童謡」という言葉が誕生したのは1918年だそうです。
そもそも日本には子どもが歌う歌というものがありませんでした。
明治時代、アメリカから派遣された宣教師が横浜山手の小さな寄宿学校で
讃美歌「主、われを愛す」を英語のまま教えたという記録があります。
でも それは別のお話。またの機会に…

さて、松代に話をもどします。

信州松代は、上田から移封した真田松代藩の居城があった城下町で、骨董品も多く、佐久間象山をはじめ偉人を輩出し、文化度も高かったようです。
この地に、童謡唱歌関係だけでも山上武夫、草川信、海沼實、坂口淳、近くに中山晋平、高野辰之、浅原鏡村などが輩出しています。

どんな人物だったのでしょうか。
早速 調べてみました。

【作曲家 草川信】


草川 信(くさかわ しん) 1893年2月14日 - 1948年9月20日

旧松代藩士で銀行員の草川一成の四男として生まれる。長野師範学校附属小学校(信州大学教育学部附属長野小学校)で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を経て、東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進むとヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に師事する。
1917年卒業後、渋谷区立小学校訓導、東京府立第三高等女学校(東京都立駒場高等学校と東京都立芸術高等学校の前身)教諭、東京市杉並高等家政女学校(東京都立荻窪高等学校の前身)、東京音楽学校教務嘱託など教職の傍ら、東京音楽学校管弦楽団などで演奏家として活動。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がける。子の草川宏、実兄の草川宣雄(1880年9月9日 - 1963年)と青木友忠(1887年 - 1921年6月28日)、甥(宣雄の子)の草川啓も同校卒業生で、宣雄は東京の富士見町教会オルガニストであった。


ゆりかごの唄(北原白秋作詞)
離れ小島の(北原白秋作詞)
ふぶきの晩(北原白秋作詞)
南の風(北原白秋作詞)
夕焼小焼(中村雨紅作詞)
兵隊さんの汽車(富原薫作詞・戦後GHQの指令で歌詞を『汽車ポッポ』に変更)
緑のそよ風(清水かつら作詞)
春のうた(野口雨情作詞)
どこかで春が(百田宗治作詞)
ふうりん(川路柳虹作詞)
父母の声(与田準一作詞)
ままごと(浜田広介作詞)
風(クリスティーナ・ロセッティ作詞、西条八十訳詞)
さいたま市立木崎小学校(下山懋作詞)
馬の鈴(川路柳虹作詞)[7]

【作詞家 坂口淳】


坂口 淳(さかぐち じゅん)1908年1月1日 - 1974年8月18日

上京後、写真館に勤めながら、西條八十の門下となる。1949年キングレコード専属、のちにヴィクターに移籍。1956年詩誌『熊ん蜂』を創刊し、1974年に脳卒中で死去するまで発行を続けた。随筆集に『石神井だより』、童謡集に『光と風と花と』がある。
「マロニエの木陰」、「子鹿のバンビ」などの童謡を作詞した。松代町の真田公園には、「子鹿のバンビ」の歌碑がある。

松代町内では正午を知らせるチャイムに「子鹿のバンビ」のメロディーが流れるそうです。ディズニー映画「小鹿のバンビ」に魅せられてこの詞を書いたということです。

作曲者の平岡照章は岐阜県上石津町出身で、坂口淳とのコンビで何曲か作っています。「ママのおひざ」 「赤いリボン」「ミルクのみ人形」などです。

『マロニエの木陰』(昭和12年3月)[細川潤一作曲、歌:松島詩子]
『子鹿のバンビ』(昭和26年)[平岡照章作曲、歌:古賀さと子]
『旅路の果ての港町』(昭和26年8月)[清水保雄作曲、歌:竹山逸郎]
『ママのおひざ』(昭和26年)[平岡照章作曲]
『あすなろ』(昭和37年)[渡辺今朝蔵作曲]
『ひまわり時計』[山本雅之作曲]
『赤ちゃんはいいな』[平岡照章作曲]
『ばあやのお里』[平岡照章作曲]
『つみきのホテル』[保田正作曲]
『ひばりと麦笛』[保田正作曲]
『ほうせんか』[湯山昭作曲]
『ぼたんゆき』[小森昭宏作曲]


 また、坂口淳は「 マロニエの木陰」や
渡辺はま子が歌った「上海の夜」などの歌謡曲も多く手がけています。

「小鹿のバンビ」は時報時に街中に流されるほど愛されています。
かわいいですね。

【作曲家 海沼 實】

海沼 實(かいぬま みのる、1909年1月31日 - 1971年6月13日)

資産家であった叔父の支援を受けて上京し、同郷の作曲家・草川信や、その音楽学校時代の同級生である成田為三らに師事。東洋音楽学校高等師範科(現・東京音楽大学)在学中の昭和8年(1933年)に音羽ゆりかご会を創設し、川田正子(後に継子となる)、川田孝子(後に継子となる)、川田美智子(実子)の川田三姉妹をはじめとする数多くの童謡歌手を育てた。
戦前~戦中

『またあしたね』作詞:横堀恒子
『あの子はたあれ』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『めだかの幼稚園』作詞:斎藤信夫
『花屋さん』作詞:高田三九三
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『お猿のかごや』昭和13年、作詞:山上武夫
『軍艦旗の歌』昭和13年、作詞:松美佐雄
『ちんから峠』昭和14年、作詞:細川雄太郎
『やさしいお母さま』昭和15年、作詞:稲穂雅己
『からすの赤ちゃん』昭和16年、作詞:海沼實
『欲しがりません 勝つまでは』昭和17年、作詞:山上武夫
戦後

『見てござる』昭和20年、作詞:山上武夫
『里の秋』昭和20年、作詞:斎藤信夫
『みかんの花咲く丘』昭和21年、作詞:加藤省吾
『蛙の笛』昭和21年、作詞:斎藤信夫
『母さんたずねて』昭和21年、作詞:斎藤信夫
『夢のお馬車』昭和22年、作詞:斎藤信夫
『夢のおそり』昭和22年、作詞:斎藤信夫
『お花のホテル』作詞:加藤省吾
『かぐや姫』作詞:加藤省吾
『すずらんの花さく丘』作詞:加藤省吾
『たのしい朝』作詞:加藤省吾
『ちょうちょのお夢』作詞:加藤省吾
『みどりのそよ風』作詞:加藤省吾
『青い風』作詞:勝承夫
『つばめの旅』作詞:三苫やすし
『花やさん』作詞:高田三九三
『ワン・ツー・スリー・ゴー』第6回日本レコード大賞童謡賞受賞曲
『うまれたきょうだい11にん』第11回日本レコード大賞童謡賞受賞曲
『明るい街』(イケダの灯油・テーマソング)作詞:島来展也

【音羽ゆりかご会】

文京区音羽の護国寺で童謡作家の海沼實が創設する。3年半放送されたラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」などを担当した。戦後の童謡ブームで中心的な役割を果たし、川田三姉妹(正子、孝子、美智子)らの童謡歌手を輩出した。ただし、1980年代時点ではスター・システムをとらず、派手な会員募集も行っていない[2]。
1986年時点で会員数は80人で、大半が女児。年齢別では小学生が半数、中高生が20人、残りは幼児。在籍年数は5〜7年が多いが、20年以上在籍した者もいる。

私の長男は浅草のお寺の幼稚園で、
課外授業で川田正子先生「お歌のお稽古」に通いました。
水曜日は半日でお帰りですが、課外授業を取ると
2時半くらいまで幼稚園にいてくれるという、延長保育のようなものでした。
年に数回しか川田先生はいらっしゃいませんでしたが、
小柄なのに存在感は大きく、お声の若さに驚いた記憶が鮮やかです。

ちなみに「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定による。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。
主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌:川田正子、ゆりかご会)も広く歌われ、1948年(昭和23年)の選抜高校野球の入場行進曲にもなった。歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」と呼ばれることも多い。また「とんがり帽子」は古関の母校である福島県立福島商業高等学校の応援歌の一つとして使用されている。

NHK連続ドラマ《エール》でも登場しましたね。
この舞台も信州だったのですね。

【作詞家 山上武夫】


山上武夫(やまがみ たけお)1917年2月8日-1987年11月2日

山上の実家は骨董商を営んでいた。山上は故郷松代の先輩草川信の活躍や海沼實の動向に触発され、詩作を志し上京する。草川宅を訪れた山上は、当時音羽ゆりかご会を創設(1933年)したばかりの海沼實と偶然の対面を果たし、以後山上は海沼と共に歩むことになる。この辺のところを山上は自伝で『同郷ということもあって、海沼先生に寄り添う形の歩みを続けた。喜びも悲しみも同一の部分が大きく、想い出も多い』というようなことを述べている。海沼實との師弟関係は終生続き、1969年(昭和44年)にはコンビの曲「うまれたきょうだい11人」が第11回日本レコード大賞童謡賞に輝いて新境地が開拓されようとした時、二年後の1971年(昭和46年)海沼の死去の報に接したのだった。
「欲しがりません 勝つまでは」 海沼實作曲
「あしたもお天気」 海沼實作曲
「ありがとう幼稚園」 佐々木すぐる作曲
「すすきの丘」 八洲秀章作曲、岡本敦郎歌
「ねんねをすれば」 山口保治作曲
「松代小学校校歌」 足羽章作曲
「お肩をタントン」 本多鉄麿作曲
「さいたはなちったはな」 小森昭宏作曲
「みどりの地球」 小森昭宏作曲
「うまれたきょうだい11人」海沼實作曲、第11回日本レコード大賞童謡賞

【童謡 お猿のかごや】

この童謡は現代でもよく知られている。歌もさることながら、その軽妙な節回し、①『エ(ー)ッサ エ(ー)ッサ エッサホイ サッサ』、②『ソレ ヤットコ ドッコイ ホイサッサ』、③『ホ(ー)イ ホイ ホイ ホイサッサ』が、話の比喩などに使われるからである。狐狸庵遠藤周作などはよく使っていた。山上の原詩は、①『エッサ ホイサ エッサ ホイサ』、②『ソレ が無い』、③『ホイ ホイ ホイ ホイ ホイサッサ』であったが、海沼は、この原詩はメロディーに乗りにくく軽快さに欠ける、という理由で現在のものに改変した。歌の中の『小田原提灯』から、一般に箱根山中を想像するが、山上の回想によれば、故郷の方の赤い夕焼けを見ていたら、松代の山道で猿がかごを担ぐ詩が浮かんだので即座に書いた、ということである。


この小さな町から、有名な童謡作家が四人も輩出されていることに、
少なからず驚きました。
日本の心の故郷となる童謡を作ることができたのも
こうした自然豊かな山間に生まれ育った
おかげなのでしょうか。
新劇女優の松井須磨子も松代出身ということを知り、
ますますすごいなあと思いました。

しばし童謡を歌って心を和ませたいと思いました。

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