〈富貴桜お倉〉〜花のように、風のように、海のように〜横濱から日本を動かした女
横浜夢座25周年・五大路子舞台生活50周年記念公演が9月13日〜16日に、神奈川芸術劇場で開催され、私は14日夜の部に観劇しました。
♦️ あらすじ♦️
富貴桜と横濱
1853年(寛永6年) ペリー、浦賀に来航
1858年(安政5年) 日米修好通商条約
1859年(安政6年) 横浜開港
1869年(明治2年) お倉と亀次郎夫妻、横浜へ
1870年(明治3年) 5月15日 伊勢山皇大神宮ご遷宮祭
1871年(明治4年) お倉、駒形町に富貴桜を開く
1873年(明治6年) 富貴桜焼失。尾上町で再開。
1885年(明治18年)第一次伊藤博文内閣
1889年(明治22年)大日本帝国憲法、発布
1894年(明治27年)日英通商航海条約
1894年(明治27年)鉄桟橋(大桟橋)完成
1895年(明治28年)お倉、富貴桜を甥に譲る
1898年(明治31年)富貴桜閉店
富貴桜は料亭政治の元祖だった
井上馨、伊藤博文、大隈重信など明治政府の重鎮、実業家で三菱の創始者岩崎弥太郎、豪商田中平八から歌舞伎役者、お相撲さん、今でいえば芸能人やアスリートまでが、こぞって通ったという富貴桜。「富貴」は美しく豪勢な花姿の牡丹から、亀次郎が名付けました。
東京の表舞台ではなかなか会えない大物たちが、横浜の富貴桜で会談し、国政にも大きな影響を与えました。
ヒロインお倉はとびきりの「いいおんな」
お倉は江戸浅草の置き屋の娘として生まれましたが、実家は「天保の改革」で潰れてしまい、苦界に身を落とします。のちに芸者になって亀次郎と懇ろになり、所帯を持ちますが、この亀次郎は根っからの遊び人の散財家。裕福な実家からは勘当され、借金に追われて、二人は大阪に逃げます。大阪には半年ほどいただけで、東京へ戻ることに。船で横濱に着きます。開港当初に横濱の街の賑やかさに、「夢」を見たお倉は東京には帰らず、横濱関内で芸者の置き屋をはじめます。
明治4年、お倉の器量を見込んだ豪商田中平八の出資で、「富貴桜」を開きました。
容姿端麗、才色兼備のやり手と評されたお倉は、しじみ売りの娘の境遇を聞き、中居に雇ったり、親に捨てられた子を引き取るなど情に深い優しいひとでもありました。
気風の良さは天下一品、それに加えて、人物を見抜く才にも長けていて、人と人を結びつける仲立ちや、揉め事の仲裁も得意。人から相談を受ければ、的確なアドヴァイスをして、決して秘密を漏らさない、そんな鮮やかな女将はまさに「フィクサー」であったのです。
「いいおんな」の相手は「いいおとこ」?
お倉の亭主、亀次郎は、将軍家御用達の植木屋という裕福な家の生まれました。「一生遊んで暮らすのが夢」と親の財力にあかしてお倉に入れ上げ、家から勘当されてしまいます。
お倉は芸者になって亀次郎を養うのですが、遊びぐせは治りません。
「お倉の好きにすれば良いよ」と耳元で囁かれると、俄然元気が出てくるお倉。
どうにもしょうがない浮気男でも、粋でいなせな優男。そんな亀次郎をお倉は好きでたまりません。いいおんなはなぜがダメンズがお好き・・・?
お倉の口癖「競争より協力」
実力ある政治家たちは、大体が「人の話」を聞きません。
似たもの同士だからこそ、歩よりもできずに意地を張って、話も先に進まない事が多くあります。
伊藤博文と大隈重信の意地の張り合いも、お倉の命がけの仲立ちで最後にはうまく纏まっていきます。
この時代の政治家は今の政治家(今だけ、金だけ、自分だけ)とちょっと違ってるかも・・国益を願い、100年先の事を見据えることがきでたのですから。
五大路子さんとお倉
「奇跡の歌姫 渡辺はま子」
「横濱ローザ」
「真昼の夕焼け」
五大路子さんの演劇の舞台は常に「ヨコハマ」です。
「夢座25年目の出航」の公演はどんな出し物にしようかと、さぞ、悩まれたと思います。
その答えの主題は「夢」だったのですね。
16才の時に紅葉坂から見渡せる横浜の街と海の向こうに何があるのか・・いつかこの横浜から世界へ飛び立っていきたいと夢を持った路子さん。
開港当初から横浜は「どんな夢でもかなう街」でした。そこで活躍したお倉さんこそ、今回の公演に最も相応しいヒロインだと思いました。
私も同じように、いつか横浜港から世界へ出る!と子供の時から、家の屋上から港を見ながら思っていました。
夢は人それぞれ違います。たくさんの夢が、かなうところにはいつも希望があります。
わたしはどこにも行かない。
この横浜からこの国を見てみるよ。
そしてこれからももっともっと
夢を見続けるよ
最後にお倉さんが言う言葉・・・・
ああ、横浜っていいなあ。
世界のどこへ行っても、帰ってくるところは横浜・・・・
と心から思いました。
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