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🏛大倉山記念館🏛


大倉山記念館に昨日下見にいって参りました。
何度か訪れていますが、
今回、こちらでコンサートを開催するので、
創始者大倉邦彦氏がどんな方だったのか、
知りたくなりました。
少しですが、調べてみたので、
noteにまとめてみたいと思います。


大倉山の由来

横浜の地下から東横線に乗ると反町を過ぎて、
地上に上がります。
横浜ー反町ー東白楽ー白楽ー
菊名ー大倉山ー綱島ー日吉。
と各駅停車は止まります。

横浜の中でも上質な住宅街として知られる「大倉山」。


1932(昭和7)年まで、
大倉山駅は太尾(ふとお)駅という名前だったのです。
さらに2007(平成19)年の住居表示によって、
太尾町から大倉山と
街の名称も変更されました。
この大倉山という街や駅の名前は、
大倉山記念館が由来になっているのです。

その歴史は
1932(昭和7)年4月9日、
実業家・教育者であった大倉邦彦が私財を投じて、
神奈川区太尾町(現 港北区大倉山)の丘を東急から買収し、
大倉精神文化研究所を設立したことではじまりました。

写真;設立当時は、周りの木も背が低く山の上に建つ洋館は一際目立っていた

【写真提供=(公財)大倉精神文化研究所】


昭和初期まではここは太尾(ふとお)町と
呼ばれた農村でした。
東京急行電鉄の前身である目黒蒲田電鉄は
研究所の竣工計画に合わせ、
より乗客を増やすために、隣接地に梅林を造りました。
どんどん木は増えて、1960年代には約1000本以上となり、
観梅の臨時急行が出るほどの賑わいだったとなります。
そしてここは大倉山公園と呼ばれるようになりました。

【写真提供=(公財)大倉精神文化研究所】
【写真提供=(公財)大倉精神文化研究所】


今では敷地は4分の1ほど、
梅の木の数は32種類で200本ほどに縮小されましたが、
大倉山公園では毎年1月下旬から3月にかけて、
長く花を楽しむことができます。

明治の起業家 大倉孫兵衛

Wikipediaより



人は何のために働くのか、
企業は何のために活動するにか…
人生の意義や企業倫理とはなにか…

明治の起業家大倉孫兵衛はその深い意味を考えました。

大倉孫兵衛は幕末の開港地横浜で、
外国船員売る錦絵の製作・販売を家業としていました。
開国後、横浜で錦絵の販売を手掛けたことをきっかけに
出版業や洋紙問屋へ事業を拡大する一方、
同志森村市左衛門と共に陶磁器の輸出を手掛け、
明治20年代以降、大正期に至るまで製陶業の近代化に
力を尽しまたのです。
孫兵衛の手掛けた事業は後継者たちに引き継がれました。

出版業を担った義弟保五郎は
大倉書店を全国有数の大規模出版社へ発展させました。


製陶業を担った長男和親は
日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)
大倉陶園・東洋陶器(TOTO)
日本碍子(日本ガイシ)を始めとする
我が国の近代製陶業の基礎を築きあげました。

大倉陶園100周年記念ブルーローズ カップ&ソーサー
Wikipediaより


洋紙問屋を引き継いだ養子の大倉文二は、
事業を多角化して総合貿易商社の経営を
目指しましたが、
志半ばにして病に倒れました。
その文二の後継者が
大倉神文化研究所の創設者大倉邦彦です。

大倉孫兵衛は、
金の儲け方から儲けた金の使い方へと考えを巡らし、
晩年にいたり人生の意義を考え
「商売もツマリは宗教である」
との悟りを得ました。

ところが、
起業家大倉孫兵衛は自己宣伝をしなかったために、
近代日本の実業界に大きな足跡を残しながら、
その存在は現在ではほとんど知られていません。

ですが、孫兵衛の精神は孫である邦彦に受け継がれ、
研究所設立に多大の影響を及ぼしました。

大倉記念館創立者 大倉邦彦


Wikipediaより




1882年(明治15年)4月9日、
素封家江原貞晴の次男として、
佐賀県神埼郡に生また。
1971年(昭和46年)7月25日没。
享年89才。
1906年(明治39年)上海の東亜同文書院商務科卒業後、
大倉洋紙店に入社。

1912年(明治45年)社長大倉文二の婿養子となり、
1920年(大正9年)社長に就任。

当時のわが国の教育界・思想界の乱れを
憂えた邦彦は、
私財を投入して東京の目黒に
富士見幼稚園を開園し、
故郷佐賀に農村工芸学院を開設したほか、
1932年(昭和7年)に
大倉精神文化研究所を開設したました。
邦彦は、所長として
研究所の運営・指導にあたり、
各分野の研究者を集めて学術研究を進めるとともに、
精神文化に関する内外の図書を収集して
附属図書館も開設しました。


また、1937年(昭和12年)
東洋大学学長に就任し、
二期6年、手腕を発揮しました。

1945年(昭和20年)には
A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されましたが、
昭和22年に嫌疑がはれて釈放され、
27年に研究所理事長兼所長に復帰しました。

1958年(昭和33年)
タゴール記念会の理事長に就任し、
昭和36年大倉洋紙店会長となり、
37年の皇學館大學の創立に際して
学事顧問とななりました。

大倉邦彦略歴

1大倉邦彦は 1882(明治 15)年 4 月 9 日に江原貞晴の次男として佐賀県神埼郡に生まれ、 1971(昭和 46)年 7 月 25 日に 89 歳で没する。
大倉書店で成功した大倉孫兵衛が 1889(明治 22)年、出版に必要となる洋紙を輸入す る大倉洋紙店を開業したのであるが、大倉邦彦は 1906(明治 39)年、上海の東亜同文書 院商務科を卒業後に大倉洋紙店に入社した。その後、1912(明治 45)年、社長の大倉文 二の婿養子となり、1920(大正 9)年に 3 代目の社長に就任した。大倉は養祖父の大倉孫 兵衛と養父の大倉文二の商売の思想や方針を継承し、大倉洋紙店の発展に寄与した。
後述するように、大倉は私財を投じて 1924(大正 13)年には東京の目黒に富士見幼稚 園を設立した。そして、1928(昭和 3)年 1 月には、大倉は郷里の佐賀県神埼郡(現・神 埼市)に女子の教育施設である農村工芸学院を開設し、院主を務めた。この学院の設立目 的は、農村の子女に技芸を習得させ、万一の時も経済的に困ることのないよう、職業教育 を受けさせて副業を振興させることにあり、しかもそれが郷土に生産的事業を根付けさせ るものになると考えたのであった。また学院は全寮制を採用しており、彼らに正しい人生 観を教えることも目的としていた。
そして、大倉は 1932(昭和 7)年には現在の横浜市の大倉山に大倉精神文化研究所を開 設した。大倉は所長として研究所の運営と指導にあたり、各分野の研究者を集めて学術研 究を進め、精神文化に関する国内外の図書も収集して附属図書館も開設した。また、1937 (昭和 12)年東洋大学の懇請により第 10 代の同学長にも就任し、2 期 6 年の間大学教育 にも携わった。

2富士見幼稚園開設にあたって
大倉邦彦は 1924(大正 13)年に東京の中目黒に富士見幼稚園を開設したのであるが、そ の理由は、「幼児期の学びや体験がその後の人間形成に大きな影響を与えると考え、幼児教 育の必要性を唱え」て、「その信念を自ら実現する」ことにあった。開設当時、一般には 「幼児教育はさほど重視されてはいなかったが、大倉邦彦は、幼少時代の学び舎体験が人 間としての基礎を作り、その後の人生に大きな影響を与えると考え、幼児教育の必要性を 訴えた」のであった。大倉は「幼稚園時代の教育は、たとえ記憶として意識的には自覚 していないものであっても、潜在的な意識として人間成長の基礎を形成するものではない か、またそのことがかえって全人的に後年を支配する場合もあるほど重要ではないかと確 信していたのであった。」また、「自らの体験と所信を具体的に子どもに教えることによっ て子どもの心の情操面を引き出し、おおらかな人間に育てたい」と考えていたのである。このような考えから、大倉は人間形成の基礎を担う教育機関の実現のために富士見幼稚園 を開園したのであった。
富士見幼稚園は 1925(大正 14)年の 4 月 24 日付の申請により、当時の東京府から正 式に設置の認可を得た。当初は東京の目黒の自邸に近い中目黒谷戸前の地に建設した。開園当初大倉は園長を務め、保母は日本女子大学校出身の 3 人で子どもたちの指導に当たった。園児の定員は 50 名を厳守し年齢ごとに 3 組に分ける教室構成であった。大倉も「あ る時は、慈悲深い母となり、ある時は厳粛な父」のように幼児に「話をしたり、歌を歌っ たり、運動会には一緒に走り、遊戯を」するほど積極的に交流し幼児教育にも関わってい た。
富士見幼稚園の保育のモットーは、「その名のように心身ともに気高く、強く、子供の自然性を培い、協同一致の習慣を身に付け、幼少のころから天皇陛下、みくにぶりの観念を (ママ)与えられるように心がけて、強く、賢こく、親切に」というものであり、入園案内書にも このことは明確に掲げられていた。東京府への設置申請書における「保育の方針」には、 「富士見幼稚園は其名の様に気高く心身共に強い自然な子供を育て、協力一致の習慣を付 け、そして幼少の頃より天皇陛下日本帝国又は国際等の観念を与へる様に心掛けて居りま す」とある。上述した入園案内書のものとは若干の表現の違いはあるものの、子どもの 自然性を育み、共に協力する習慣を身につけさせ、日本や国際的な観念を与えることに重 きを置いていたことが窺える。
1944(昭和 19)年、戦争の激化のため学童疎開が始まった。このために東京都から休園の 指示を受け、5 月 7 日をもって富士見幼稚園は閉園を余儀なくされたが、それまでは毎年 100 名程度の園児を送り出すほどの規模にまで成長していたのであった。
戦前日本の幼児教育理念に関する一考察
富士見幼稚園と創設者の大倉邦彦を中心に 大岡 ヨト




大倉記念館の建築

photo by Toshimi
photo by Toshimi
大倉山記念館HP
大倉山記念館HP



建造物の特徴
 古典主義建築の第一人者 長野宇平治(1867-1937)(以下 長野)は研究所の「東西文化融合」を掲げた邦彦の理想に深く共鳴し、古典主義にとらわれず古代ギリシャ以前のプレ・ヘレニック様式という世界的に初めての建築様式を用い、さらに東洋の意匠も取り入れた東西文化が溶け合う独特の様式美を持たせた。記念館となった今もほぼ原形をとどめている。

本館の構成
・エントランスホール(中央館):2階
・ホール(講堂):3階
・東館(集会室10室、記念館事務室)、西館(附属図書館と研究所):1階から3階
・背面に中庭を囲んだギャラリー(回廊):2階

 外装は全体に白く正面玄関のみ石が貼り付けられている。正面入口前の階段の上に4本の柱、その上のペディメントは中央に正倉院御物の八稜鏡を模した鏡とその左右に向かい合う鳳凰のレリーフ装飾、見上げると四角い塔屋とその正面に6本の柱が見える。どの柱も下部が細くなる独特な円柱(プレ・ヘレニック様式)である。

 エントランスホールには正面に階段、吹き抜け天井からステンドグラスを通した黄金色の光がさす。ステンドグラスの下のテラコッタ製の16頭の鷲と獅子の塑像のいずれかと見上げる者の視線が合うようになっている。床や壁、装飾がある階段手すりは素朴な荒削りの石で仕上げられ寂寥感さえ漂い、掛け合わされ荘厳な趣がある。
 かつて「心の間」と呼ばれ、神の化身・使いと考えられていた鷲と獅子を配することで神や仏に見守られ誠の心に帰り神仏に近づく準備をし、続く殿堂(現ホール)に入る、という邦彦の考えを表現した場所である。

 階段を上がった先のホールでは、四隅に檜でできた裾細り(プレ・ヘレニック様式)の太い二本一組の円柱、その上部の寺社建築の木組みを取り入れた斗栱や天井の木組み(東洋の意匠)、左右の窓や壁の意匠(プレ・ヘレニック様式)が違和感無く共存し重厚感を醸し出している。 
引用 横浜市大倉山記念館 ~施主と建築家の思いがこめられた歴史的建造物の存在価値~
田代 佳津子


大倉山記念館HP
大倉山記念館HP
大倉山記念館HP



大倉邦彦先生自らが館内を案内してくれる
貴重な動画をお送りします!



こんな素敵な建物です。
ぜひ一度、見学にいらしてください。

コンサート前、少し早めにいらして
探検してみるのも一興ですね。

可憐な梅に馥郁とした香が心を癒してくれことでしょう。

#大倉山記念館
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