小説で人間を描写すること、俳優が演技をすること

先日、Abema Tv 新しい別の窓 に白石和彌監督が出演していて、『凪待ち』で主演した香取慎吾の「金を借りる演技」を絶賛してた。

ギャンブル依存症のくず男の香取慎吾が、それでも親身になって世話をしてくれるリリーフランキーにお金を借りるのはやっぱり気が引ける、直接的にお金を手渡されたら「受け取れない」けれど、「いいから」と無理やりシャツのポケットに入れられちゃったら「ああしょうがないや、ポケットに入れちゃうんだから」としかたなく受け取る、という演技。

事前に香取慎吾がリリーフランキーと相談して、そういうシーンになったという。

この映画、Amazon primeで観たけれど、たしかに香取慎吾のくず男っぷりはすごい。すごいくずでどんどん落ちていく。欲望(依存症)や嘘、暴力、そういった人間の性が嵐のように荒れ狂っている。だけど、いつかは「凪ぐ」のではないかというかすかな希望を持たせてくれるような憎みきれない人間性のかけら、その微妙な人物描写がラストの救いに回収されていく。主人公のその微妙な人間性が肝になってる作品だと思った。実際、映画のなかでは、そこでお金借りなかったらどうにもならないというような状況で、のどから手がるほど欲しいのだけど、さすがにこのひとにこれ以上甘えられないよな、というのがこのくず男の最後の矜持でもあるような、そんな微妙なシーンで。

監督は「香取さん、こういうお金の借り方したことあるんじゃないかなって思うくらい絶妙な演技でした」と言ってた。

セリフではなく、大げさな動作や表情ではなく、郁夫のそのときの心の動きと共に郁夫という男のダメさ加減と憎み切れない感じとその切なさが、そこで全部わかるようなそんなシーンになってたように思う。

この、「直接お金渡されたら受け取れないよな」の感覚は、俳優さんが役を演じるときだけではなく、小説で書き手がその登場人物を描くときにも発揮しなければならないものだと思う。

上のようなシーンを小説で書くとき、小野寺にお金を借りる郁夫の心理をいくらでも文字で説明ができてしまう。例えば、

郁夫は躊躇した。

と書く。「躊躇」という体の動きはなんだ? 見えてこない。郁夫という人間を何も描いていない。

申し訳ないという気持ちで、うつむいた。

と書く。そのときの気持ちは「申し訳ない」だけなのか? 「申し訳ない」以外には何も思わなかったのか? そう書いたら、そうでしかなくなってしまうのに。

最悪なのは、これまで小野寺にしてもらってきた好意を書き連ねて、これこれこうだから、郁夫はお金を借りるのをためらってしまうというような説明をしてしまうこと。

こういうの全部飲み込んで、俳優さんが演技をするように、そこで郁夫という男はどんな表情をするのか、どんなしぐさをするのか、どうしたらそのお金を受け取れるのか、を考え、演じ、描きださなければいけない。

お金が必要なんだろう、と小野寺が郁夫に1万円札を差し出したとき、郁夫という登場人物はどうするのか。そのまま受け取るのか。受け取れないのか。受け取りたい、けど受け取れないとしたら、じゃあどうしたら受け取れるのか。この男の人間性は、そこでどう浮き出てくるのか。何をそのシーンで見せなければいけないのか。作品全体のなかで、どんなシーンとして存在するのか。これを、俳優が演じるのと同じように考え抜かなければいけない。

と、そんなことを思った。

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