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【恋愛小説】「傾いでます」第十話


第十話

 ゴウの携帯から着信が入ったのは、翌日のことだった。
 声も、ゴウにそっくりだった。
 意識が回復したのかと思うよりむしろ時間が遡ったような錯覚に陥いり、地平がゆがんだ。
――かたぎりごうの弟です。
 電話の声は言った。
 病院で見かけたゴウに似たスーツ姿の若い男、二十代後半に見えたそのひとが、しかしすでに三十歳になっているゴウの弟であっても不思議ではないと気づく。そうか、ゴウはいま、三十歳なのか、と思う。
――先日はお見舞いありがとうございました。警察から兄の携帯を返してもらって、アドレス帳にお名前があったので、ぶしつけとは思いましたが、電話させてもらいました。
 はぁ、そうですか、と多佳子は間の抜けた声で返す。咳払いし、背筋を伸ばしてみる。
 電話の向こうのゴウの弟も、ひとつ大きな呼吸をしたような間を置いた。
 沈黙がしばらく続く。
「お加減はいかがですか」
 いたたまれずそう言葉を返したのとほとんど同じタイミングで、相手も何かを言った。
「はい?」
 多佳子は訊ね返す。
――今朝、延命装置を外しました。
 ああそうなのですか、とその言葉の意味をよく考えないまま多佳子は言った。警察の結論も出たし家族親族とも相談して決めたのだと電話口で流れる話を、そうですか、そうですか、と、それらしく受け答えし、そして葬儀告別式は身内ですることになりましたと言う言葉を聴いて、その電話が終わったことを知る。お世話になりました、失礼いたします、というゴウによく似たしかしゴウよりずっと礼儀正しい若い男の声が、つーつーという電子音に代わる。こちらこそお世話になりました、とその無機質な音に向かって多佳子は頭を下げた。

「ずいぶん傾いでるね」
 路地に面して建つ古い長屋の測量調査に来た同じ事務所の土地家屋調査士は手伝いとして同行した多佳子に言った。建物自体の価値はなしに等しいよな、とひとりごとのように付け加える。表通りに面して商店があっただろう土地はすでに駐車場として広がっており、その商店主たちの住処として機能していたいわゆる裏長屋という六軒長屋だった。ビルに囲まれたその一角は、半分はアスファルトで平らにされており残りのスペースに刈り残された雑草のように傾いだ長屋が立っている。窓枠とガラス窓の間に鋭角三角形の隙間が空いている。玄関の庇はたわみ湾曲した雨どいをぶら下げている。外壁は古めかしい羽目板のままの部分もあれば、比較的新しく見えるタイル調のサイディングを施した部分もあり、毒々しい緑色の波板のところもあった。ばらばらで、その場しのぎで、まるでセンスがない。軒下には土だけになった植木鉢がいくつも並んでいる。住人はすでに引き払っているのかどの棟にも表札はなかった。ただ、NHKと犬と赤十字のステッカーが何枚も貼られてある。霞ガラスかと思っていたそのガラス窓は濃淡がまだらで、透明のものがすすけてしまっているのだった。その比較的透明なまま残っているところから中を覗くと、調度はもはや何もなく、畳も上げられていた。ここも取り壊され更地になるのだろうか。
「でも、最近こういう古い家に住みたがる若い人結構いるみたいだよ。補強工事だけして、あとは借主が好きなようにリフォームできるようにするんだって」
「ふうん」
 建物の裏側に回り込む調査士の背中に向けて、多佳子は気のないあいづちを打つ。一周回って戻ってきた調査士は車のトランクから測量機器を運び出し始めたので手伝う。
「でも、そうとう補修しないとだめじゃないですか?」
 紅白の棒を取り出しながら多佳子が訊く。
「だよね。補修費用考えたらやっぱり更地にしようって話になるかもね。税金も高いだろうし」
 解体工事はあっという間だろうな、と多佳子は思う。わたしが大槌で横殴りするだけであっさり倒れたりして。
 外し忘れたカーテンだろうか、ひとつの窓ガラスに色あせた赤黒い布のようなものが見えた。どこかで見覚えがあるように思う。
「今日は下見だから、公図とだいたい照らし合わせて、あと高低差だけみとくからね」
 調査士が言う。
 はーい、と言いながらスケールを持って立つ。記憶をぼんやりとたどる。
 ふと思い出す、そうだ、えんぴつおばさんだ。彼女のドレス。

 次の休みに話し合おうと言った通り、先日の日曜日、多佳子は夫と話し合いの時間を持った。入籍のことや子どものことについての考えを話し始めた夫に、多佳子はふいに言った。
「ねえ、女がいたんでしょう」
 一瞬の間をおいて、夫はからからと笑った。
「何言いだすの。びっくりしたなぁ」
 そのほがらかさが、冗談で流してしまおうという意図を匂わす。
「わかるよ、わたしには」
 にこりともせず多佳子は言う。
「そんなわけないだろう。ありえないよ」
 夫も真面目な顔になり言う。
「正直に言って。そうじゃなきゃこれからのことなんか話したくない」
 何言ってるの、そんなことないよ、と繰り返していた夫が、頑なに口を閉ざし表情を固めたままの多佳子に、観念したように告白した。
「一度だけなんだ」
 夫は苦しそうにつぶやく。多佳子はやはり表情を変えぬまま夫を見据えた。ソファに座った夫は座面から降り、フローリングに額を当て、深々と頭を下げた。悪かった、でも、二度目はない、魔が差しただけなんだ、君と別れようなんて考えたことないし、考えたくもない、本当だ信じてくれ、信じてほしい、もう二度としないから、夫は必死に弁明していた。それを見て、ああそうか、やっぱりそういうことがあったんだ、と思う。悲しさや怒りよりも、なぜだろう、ほっとしていた。わたしはね、死にかけた昔の男に会いに行ったんだよ。
「許せない」
 多佳子は言う。
 顔をゆがめた夫は多佳子を見る。その頬に多佳子は手を当てる。ほうれい線を親指でなぞる。
「次はもう絶対に許さないよ」
 夫はその言葉にすがるようにうなずいた。
 多佳子は夫の頭を抱きしめた。なじんだその汗交じりの整髪料の匂いに涙が出そうになる。ゴウのことを話したい、全部話してしまいたい、と思った。激しい衝動だった。しかしどうしても話すことができない。すでに終わったことだから、それは浮気ですらないから、もうしかたのないことなのだろうと、多佳子はあきらめる。だって死んじゃったんだし。
 

(あらすじ~第一話~第九話)

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(最終話)



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