【恋愛小説】「住む女」第五話
第五話
階段下にわたしの背丈よりも小さな扉があって、開けるとそこには掃除道具が入っていた。コブタ色のごつごつした掃除機と、竹の柄のハタキ、手ぬぐいで作った雑巾、箒。
コンセントを差し込んでごつい四角のボタンスイッチを押すと、コブタ掃除機はボォっと音を立てて小刻みに震えだす。使える。洋室のカーペットに掃除機をかける。畳と廊下は箒で掃く。縁側から集めた塵を落とす。金属製のバケツに水を汲んで灰色の雑巾を浸す。板のように固まっていた平織りの布は黒くなりながら柔らかさを取り戻していく。水の中でゆらゆら揺らして絞り上げる。バケツの中の水の音は丸くてきれいだ。
玄関と廊下と縁側を拭く。湿る木の匂い。太陽が乾かしていく匂い。拭いた縁側に寝そべっていつまでもその匂いをかいでいた。くつぬぎ石の向こうに雀の頭が転がっている。日なたの床板は温かい。
階段ははしごのように急で、その先は闇。二階にはまだ行ったことがない。段板を踏むとぎしぃと音を立てた。とりあえずナスの絵の雑巾を握り締め二階へと上がってみることにする。
何も見えない。一筋だけ光が射している。斜めの光の中で塵が舞っている。図書館にあった古い図鑑みたいな匂いがする。木や紙の乾いた匂い。埃の匂い。
階段の上がりきった先にはまっすぐ廊下が続いているらしい。壁を伝いながら光のほうへ歩いていく。壁はガラスに変わり、木枠を探るとねじ式の鍵がある。少しきついそのねじを回して鍵を開け、ガラス戸を開けてみる。光を遮っているのはその外側の木製の雨戸だった。かたん、と軽い音がして雨戸は思ったよりも簡単に開いた。
光が一度になだれ込む。そして二間続きの座敷が現れた。天井がとても低い。廊下と仕切る障子も、部屋同士を仕切る襖もその紙は薄茶色になっていて、ところどころ丸いシミをつけている。
座敷に足を踏み入れる。裸の足の裏に硬くしまった畳がひんやりする。洋服だんす、和だんす、ミシン、鏡台、祖母が季節はずれの衣類をしまっていたあの箱と同じ、大きく「茶」と書かれた木箱。ダンボール。部屋の隅に勉強机。その上には地球儀がある。そっと回すと細かい埃が飛んだ。銀色の丸いハンドルがついた足踏みミシン。小学校の家庭科室の電動ミシンがずらっと並ぶその奥に一つだけ残されていたのを見たそれ以来。ベージュ色と薄緑色のなめらかな曲線の機械。台の下の踏み板と白いベルトで繋がっている。日の光でつやつやに光ってさっきまで使っていたかのように見えたけど、触ってみるとやっぱりそこにも細かい塵が積もっている。
部屋の奥は日が届ききらず薄暗い。鏡台には赤い布がかけられている。そっとめくる。
ナスの雑巾を持った女。
どこか遠いところから急に呼び出されたみたいなぼけっとした、でもちょっと驚いたような、まるで見知らぬ誰かみたいだ。そうなのかもしれない。目をそらす。抽斗はおもちゃの机みたいな小さな箱で、かすすすすと小さな音を立てて開いていった。甘い匂いがした。おとなっぽい酸い匂いはもう消えてしまっていて、ただかすかに甘いだけの匂いだった。そして遠い匂い。資生堂の花椿のマーク。ピンク色の楕円形の箱。おしろいの箱。子どもの頃、それがとても好きで早く大人になりたいと思っていた。大人になったらそれはどこにもなくなっていた。こんなところにあった。手にとってふたを開けてみる。むせる。子どもの頃に憧れていたその匂いがまだ残ってる。白いパフとネットの下に粉がまだだいぶある。おしろいのほかにも、口紅やアイシャドウ、頬紅、そしてマニキュアもそれぞれまだ半分以上は残っている。かすすすす、という音をさせ、静かに抽斗を閉める。茶箱の中にあったのは子どもの服。赤ちゃんから小学生くらいまでの男の子の服。そしてダンボールにあったのはアルバム。
目を閉じた生まれたての赤ちゃんの写真。黒い小さな足型。〈無事に生まれました。とても元気な男の子です。〉と丁寧なペン文字で書かれた紙が挟んである。
台紙をめくる。貼り付いた透明シートがざざっと音を立てる。女の人が赤ちゃんを抱いて笑っていた。
〈三ヶ月目〉
赤ちゃんはふっくらした小さな手を女の人の白いあご先に向かって伸ばしている。
女の人はそれからいくつもの写真にその幼い男の子の成長する姿と共に写っていた。
〈三才。初めての海。波が怖くてずっとママの手をにぎっていました。〉
にこやかに微笑むその人の薬指と小指を握り締めた小さな男の子が、つないだ手を自分の頬に引き寄せてこっちをにらんでいる。
〈スイカが大好き。お顔もお手手もまっかになって食べています。〉〈ヘンシン! 強いヒーローになりました。〉〈初めての運動会。かけっこ。がんばれがんばれ。やったね。一等賞!〉〈入学式〉
写真を解説する細い文字。スイカを食べている縁側も、ネクタイに半ズボン姿の少年が気をつけして立つ玄関も、間違いない、この家。
「社長」
そう思って手を止めたのは、女の人の隣にふいに社長にそっくりの大人の男の人が立っていたからだ。でも良くみると別人。その一枚には少年の姿はなく、ただ社長に似た人と女の人がちょっと距離を置いて突っ立っていた。
手にしたアルバムを閉じ、畳いっぱいに広げたほかのアルバム全部と一緒にダンボールにしまう。ここへ日の光を通してしまったのは間違いだったんじゃないかと思えて、あたふたと雨戸を閉め、ガラス戸を閉めた。再びそこは闇になり、光にきらめく塵も一瞬にして消えていった。ナスの雑巾を握り締めながら梯子のような階段を下りた。
だけどわたしは、次の日から毎日、二階へ上がってガラス戸を開け、雨戸を開け、二間続きの座敷に太陽の光を入れ込んだ。よそよそしい遠い匂いの空気は少しずつ薄まって馴染んできた。秘密にしていたものをばらしてしまう後ろめたさみたいなものがあって、でも、それがちょっと快感なのかもしれない。
スチールの勉強机。まずその机を一通り撫でる。蛍光灯。鉛筆削り。回すとかたかた鳴る地球儀。時間表、世界地図、星図表。かばん掛け、高さ調整用の大振りなねじ。たくさんのシールの痕。破れたシールに?石ノ森章太郎。抽斗の中には細々といろんなものが転がっている。削った鉛筆や芯の丸くなった鉛筆、小さくちぎられた消しゴム、黒ずんだゴムボール、怪獣やヒーローたちのゴム人形。何か物足りないような気がする、と眺めていて気付く。ランドセルがない。教科書とかノートとか習字道具とか絵の具の道具とか、学校で必要なものがごっそりない。必要とされなかったものたちだけがここに置き去りにされているような感じ。子ども服も成長の途中できっかりなくなっている。アルバムの中の少年は十二才のお誕生日会を最後に姿を消していた。
古い写真というのは不思議だ。空気が空気じゃない気がする。ゼラチン質の、でもそこの住人たちだけはちゃんと呼吸できる特別な空気。ここはここなのにこれを見ている今こことははっきりちゃんと区切れていて、混じらない。ゼラチンだからね。写真の中の家も庭も間違いなくこことおなじなのだけど、庭の木々たちとかは、まだこれから勢いをつけて伸びていこうとする柔らかくて、細くて、元気いっぱいで、その特別な空気を吸っているから今ここに生えている木々たちとはまた違って見える。写真の中の少年は、どれもとても無邪気で子どもらしくて、だからなんだか個性がなくてよそよそしい。古い写真というのは不思議だ。似ている人はその人にも見えるし全く白々しく赤の他人のようにも見える。社長に良く似たその人は残酷なくらい白々しく社長とは別人で、それなのに社長そのものくらいに良く似ている。これは社長じゃない、というきっぱりとした思い込みがないとなんだかすごく混乱する。時間が歪む。今とは変わらないのは唯一家のかたちで、だから写った家を見るとほっとする。
台紙をめくる。
もっぱら女の人を見る。どうなったらこうなるんだろうという不思議なボリュームの髪型をしたその人はたぶんわたしくらいの年齢で、わたしよりはちょっと上かもしれなくて、でもその髪型のせいでずっと年上に見える。女の人が着ているブラウスやスカートやパンツやワンピースはちゃんとこの部屋の洋服だんすに収まっている。顔に塗られたおしろいはきっと資生堂で、彼女はこの鏡台の前でお化粧をし、この部屋で着替えをして、ひょっとしてぬらりとこの鏡をすり抜ける。つるりとしたこの鏡台のその向こうがゼラチン世界なのかもしれない。だって資生堂のおしろいはこんなにも生々しく香っているから。
和だんすには着物が入っていた。一枚引っ張り出して肩に掛けてみる。だらりと布をまとった自分を鏡に映す。きちんと着てみようと思う。旅館の仲居をしていた頃、着物は毎日着ていたのだ。帯を出し、帯止めを出し、あれこれ巻きつけてみる。でも、かたちにならない。そういえば仲居の着物はこんなちゃんとしたのじゃなくて、作業しやすい簡易的なもんぺとうわっぱりみたいなやつだった。あきらめて、小学生の頃お金持ちの友達の家で見た豪華な雛人形のように、ある着物を全部肩に掛けて、畳に座り、アルバムをめくる。
*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。
(あらすじ~第四話)
https://note.com/toshimakei/n/na8a2357ffe3f
(第六話~)
https://note.com/toshimakei/n/n7943416e8151
https://note.com/toshimakei/n/n8be1aeb640c7
https://note.com/toshimakei/n/n043b9a94c742
https://note.com/toshimakei/n/n8f95cd484e91
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