【恋愛小説】「住む女」第二話
第二話
そして山茶花の垣根に囲われた庭を見る。
名前の知らない木々が日光を浴びて生えている。カラー写真の載った最新版の植物図鑑を買おうかな、と考える。縁側に座ったわたしは体をひねり壁に引っ掛けたピンクファーのハーフコートを見る。社長の置いていった何枚かの一万円札はそのまま四つに折ってハーフコートの内ポケットにしまいこんだ。「好きなものを買え」と社長は言った。
暇つぶしに散歩に出て、近くに図書館があることを知る。
そうだ、図書館で最新版植物図鑑を借りよう。図書館にはたくさんの本があってしかもみんなタダなのだ。これまで小学校の図書室にしか入ったことのないわたしは随分と損してきたわけだ。まぁ本を買って読もうなんて思ったことはないのだけど。
しかし植物図鑑を抱え貸し出しカウンターの列に並びようやく自分の番が回ってきたら「身分証明書はお持ちですか?」と訊かれた。白いブラウスの女だ。紺色のウールのカーデガンに毛玉がついている。化粧気がなくて年齢不詳。若い気もするし歳いっている気もする。メタルフレームめがねの奥の小さな目は決してわたしの目を見ない。カウンターの前でしばらく黙っていたら「マイナンバーカードか保険証、運転免許証などはお持ちではないですか?」と再び訊ねてくる。「いいえ」と答えたら「申し訳ありません」と謝られた。なぜ謝る? とあっけに取られていたら、その女はわたしの後ろに立っていた誰かに視線を向けながら手のひらを差し出し本を受け取っていた。袖口にも毛玉。わたしはその新しい借り人に押し退けられるように列から外れた。列がなくなって再びカウンターの前に立つと「市内にお住まいか、お勤めされている証明がないとお貸しできないんです」と毛玉に言われ、手のひらを差し出されたので、つい抱えていた最新版植物図鑑を載せてしまった。十一歳のとき祖母が死んで、その後入った施設を十五で出てから七年、保険証とか住民票とかいつのまにか自分の手の届かないところになくしてしまった。マイナンバーカードというのはどこかで聞いたことはあるけれど、それがどんなものか知らない。それでもなんとかやってきたのに、こんなところにこんな落とし穴があるなんて。すごすごと図書館を後にした。
金は好きに使え、と社長は言った。そうだわたしはお金を持っている。
図書館の前にはバス停がある。
バスに乗る。駅行きのバスだ。バスで立つと視野が広い。高い。君臨する感じだ。何せわたしはお金を持っているからね。正面の大きな車窓の向こうにタイル貼りの駅舎が見えてきた。日の光が白く反射している。そう。電車に乗ればもっと遠くへも行ける。降りようとしてポケットから出した一万円札を広げたら若い男性運転手にすごく嫌な顔をされた。乗客はわたししかいなかったから自分が何をしくじったのか分からずうろたえる。料金箱と両替機を見て、手元の一万円札を見て、運転手の顔を見て、「バスに乗るときは小銭を用意してください」と図書館の毛玉女のように目をそらしながら言われた。
「すみません……」
お金さえあればなんでもできるわけじゃないのだ。わたしはさらにうろたえる。
「千円札もない?」
運転手は急にラフな口調になる。うなずく。運転手はあてつけのように大きなため息をつき、腰を斜めに浮かせながらシートの奥から何かを取り出した。
「一万円のバスカード」
透明のケースからそれを一枚抜いて差し出す。バスのイラストと10000という数字が書かれている。
「これ買ってもらえる?」
わたしは示された解決策にすがるように一万円札を差し出してそれを受け取った。が、運転手はすぐにそれを取り上げて料金箱の平らな口にそれを差し込む。別の口から出てきたカードをようやく受け取り、運転手の不機嫌そうな顔に追い出されるようにバスから降りた。
排気ガスを噴きかけながらバスが去り、ロータリーに残されたわたしは手元のバスカードを見つめる。一万円札は決して万能じゃない。さっきの解放感がすっかり色あせてしまった。遠くへ行く気などなくなった。四枚の一万円札と一枚のバスカードをピンクファーのハーフコートの内ポケットにしまう。
ざーっと噴水が盛り上がる。黄色く和らいだ日差しがそのしぶきをきらめかせる。夕暮れ、夜の始まり。気がつくとスーツ姿のサラリーマンやОLや制服姿の高校生がぞろぞろ歩いていた。駅舎に入っていったり出てきたり、バスに乗り込んだり交差点に駆け込んだり、みんなそれぞれがそれぞれの方向に向かって進んでいる。働かない人間はお金を持っちゃいけない。心を持っていかれる、と祖母は言っていた。だからわたしは駅裏のクラブ〈花〉へ行った。わたしにだって進む方向くらいある。
「いやだアタシ久しぶりね」
ママはわたしのことをアタシと呼ぶ。ママは自分のこともアタシと言うからママと話していると時々ややこしいことになる。でもなんとなくママに相変わらずアタシと呼ばれるとなんだか嬉しい。ここで働いていたのはもう二年も前だ。一緒に働いていたユリエちゃんにもっとおいしいとこ行こうと誘われて、ろくに挨拶もせずにやめたわたしを、だけどママは変わらずに迎えてくれた。ありがたい。
「どうしてたのよ」
「うん、いろいろね」
肩をすくめて微笑む。
ママもまた微笑み、きゅうっと抱きしめてくれた。前と変わらない香水の匂い。そしてカウンターの中に入り磨き上げたばかりのグラスを手に「飲む?」と言う。
「ううん、ママあのね」
「なあに」
「働きたいの、またここで」
ママはじっとわたしの目を見つめる。薄暗い店内で赤いガラスの笠をつけた照明の光が、ママのその二つの目の中に反射する。わたしが言った「いろいろ」のことを考えているのだろう。
「アタシめんどうはいやよ」
「大丈夫よ」
わたしは言う。ママの言うめんどうがどういうものか分かっているつもりだったけれど、いつも世の中のめんどうなことはわたしの知らないところで進行していて、気がついたときにはもうめんどうなことのど真ん中にいるか、カタがついてまたどっかに連れて行かれるか、で、どちらにしろ、その結果がどうしようもなくひどいことになったりはあまりしなくて、たいてい同じ様な生活がまた別のところで始まるだけのことだったりする。だからたいていは大丈夫。ただわたしは働きたい。
「そう」
ママはそう言うと視線を泳がし、またわたしに視線を戻して、「まぁいいわ」と微笑む。
「アタシがそう言うなら」
厚塗りしたファンデーションがほうれい線で割れた。
だけどめんどうはおもいのほか早く訪れた。
わたしの肩を抱きながら男と女のラブゲームを歌っていた八木橋さんが、気がつくと店の隅っこへと飛んでいた。マイクがきーんという音をめぐらせ、どこん、こん、こん、とエコーしながら床に弾んだ。カラオケセットに寄り添ってうずくまる八木橋さんを蹴りまくり、それを止めようとはがいじめするバーテンさんをテーブルのグラスとボトルを払い落としながら殴り飛ばす社長がそこにはいた。きゃーきゃー言う女の子と、警察呼べ警察と言うおじさんと、だから言ったじゃないのだから言ったじゃないのと繰り返すママの声が、物の壊れる音とともに飛び交った。
社長は一通り暴れると、スーツの内ポケットから何かをばら撒いた。財布とその中身だった。お札も小銭もカードも何かの伝票も、社長はみんなふりまいた。小銭などはお金のくせにちゃらちゃらと不景気な音をさせて落ち、もちろんお札は音もなく落ち、小さくて真っ白い伝票はひらひらと舞った。最後にわたしの頬を打ち、手首を掴んで店から引っ張り出した。
店の前の幅広の歩道に黒のレクサスが乗り上げ、その鼻先にはニッポリが立っていた。ニッポリはわたしたちが出てくるとすかさず後部ドアを開ける。社長は何も言わずそこへわたしを押し込み、長身の自分の体もねじ込んでくる。
「何やってんだ」
社長は低い声で言う。
「……、と、思って……」
わたしは口の中でつぶやく。
う? ともお? ともつかない声を出して顔を傾け、社長はわたしの目の前に寄ってくる。
「働こうと思って」
さっきよりちょっとだけ声に力を入れて言ってみる。目が合う。愛想笑いをしてみる。左頬にまたきつい痛み。シートの隅に飛ばされる。背を丸めるわたしの顔に手を伸ばし、顎の先を掴み上げて顔を寄せてくる。
「タンポドウサンのくせに勝手なことしてんじゃねぇよ」
社長の長い親指がわたしの口元を撫でる。ぬるぬると何かが塗りつけられている。しょっぱい。血だ。わたしの、血。社長はそのわたしの口元をじっと見ている。動く自分の親指と、血と、わたしの唇と。伏せられた視線がゆっくりと上がる。わたしの目を見る。黒い、暗い、どんな感情も見つからない。ただ濃くて、思わず目をそらしたくなる目ぢから。けど近すぎる。
顎から手が離れる。
「なめんなよ」
社長は唸るようにつぶやいた。
「すみません」
わたしは、言う。
世の中は複雑で、めんどうは自分の知らないところで進行してなかなか手の負えるものじゃないけれど、とりあえず金持ちと喧嘩の強い人と頭のいい人には従順であるべきだ、というのは分かってる。
「痛かったか」
社長がわたしの頬を撫でた。
わたしは首を横に振り、微笑んで見せる。
社長の長い五本の指が耳の下を這い、髪にもぐりこんでいく。血に濡れる唇に社長の熱い舌先が押し付けられた。スモークを貼ったウインドウ越しに、背を向けて立つニッポリの腰を見る。まっすぐに立つニッポリの影は夜の街の光を遮ってじっとそこにいる。
*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。
(あらすじ~第一話)
(第三話~)
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