『アルトゥロ・ウイの興隆』~純粋な悪意
舞台『アルトゥロウイの興隆』(於神奈川劇場KAAT 2021.12.1)を観た。
ブレヒトの異化効果というのを知ったのは、十何年も前、たしかバルガスリョサの「若き小説家への手紙」だったが、いまいちピンときてなかった。それ以来忘れていた言葉だったけれど、今回の観劇でそれをはじめて体験して、こういうことか、とわかった気がした。
異化効果【いかこうか】
ドイツの劇作家ブレヒトが演劇の手法として用いた用語で,ドイツ語ではVerfremdungseffekt。対象を異常に見せてきわだたせる手法をいい,ロシア・フォルマリズムの用語〈異化ostranenije〉にヒントを得たという造語。すでに知っていると思われているものを未知のものに変えて,驚きを生み出すことは文学においては古くから行われているが,ブレヒトはそれを演劇だけでなく,社会的な認識の行為として,世界の変革と結びつけた。ブレヒトの演劇において俳優は役柄に〈同化〉するのではなく,常に距離をとって批判的であることを要求された。
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だけど、あらためてこうした説明文を読んでもやっぱりよくわからない。結局これって、「体験して」「こういうことか」と「そこで」わかることなのだろう。
その体験とはなんだったのか。
まず、音楽。ジェームスブラウンンのファンクが大音量で流れている。超カッコいい。ノリノリでそれを楽しんだ。オーサカモノレールの中田亮の冒頭のMCは音楽ライブのそれそのもの。決してフィクションの世界へ「同化」することを目指さない。芝居が始まる。物語がある。人間たちが会話する。その世界が見えてくる。喜怒哀楽をなぞりながら、そしてまた音楽。ダンス。熱狂。アルトゥロウイというチンピラがいる。悪事、騙し、虚言、野心。そしてまた音楽。ダンス。
観客はあいかわらずノリノリ。舞台上からダンサーやミュージシャンは煽る。歓声があがる。ウイの野心は突き進む。人を殺し、仲間を裏切り、街を牛耳っていく。疑心暗鬼の市民たちを呑み込んでいく。
途中から乗れなくなった。手拍子もやめた。ただ、舞台上のきらきらの草なぎ君を見た。踊り狂う七瀬なつみを見た。佇む榎木孝明を見た。恐ろしかった。ラスト、半透明のスクリーン越しにスポットライトを浴びたたった一人立つ草彅剛がいて、そのスクリーンにヒトラーの言葉が映し出されていた。恐ろしかった。
「世界は変わったのか」という問いがそこにあった。
「悪意」を感じた。白井晃の悪意。観客に対して、演者に対して、空間に対して、ぶつける「悪意」。それは表現手段として純粋な「悪意」で、決して嫌悪でも憎悪でもない。誰も嫌ってないし、憎んでいない。表現の手段として切実に精いっぱい込めた「悪意」。それがその空間に満ちていた。君たちその熱狂の意味わかってるの?
で、世界は変わったと思う?
これは「体験」だ、と思った。物語を味わい、楽しみ、「ああおもしろかったね」ということではない、その場所のその時間と空間に在った満ちた「出来事」。ああ、これが「異化効果」なんだ、とわかった。
でも、それを説明できない。あの舞台を説明することはできるけど。そして、それをまたきちんとわかるにはまた、もう一度体験するしかない。
奥泉光氏は選評に「物語に頼らず、言葉そのものの運動性でもって小説を推進していこうとする姿勢」を持ち、「言葉の力を信じながら」「世界が自ずと歪んでくるように」書いていく、それがまさしく小説ということだ、と書いていた。文学における異化効果を言っているのだろう。物語の中の喜怒哀楽に同化せず、ただ目撃し、それを自覚したまま、それでもそこに歴然としてある感触=読書体験、それをもたらすようなものを目指すべきなのだろう、とそんなことを思った。
観劇と小説執筆がリンクした。
とても貴重な、充実した時間だった。
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