【恋愛小説】「発火点」第三話
第三話
ひとりになりまずテレビをつける。旅番組の再放送をかけながらコーヒーカップを片づける。余ったマカロンをつまみ五客のカップを洗う。Aは一度も目を合わせなかったな、と基一はふと思う。話しかけられることもなかった。嫌われているのかもしれない。いや、それは自意識過剰と言うものだろう。興味がないのだ。わかる気がする。基一もまた彼に、彼らに興味はない。
ブザーが鳴る。
林田です、回覧板です、と玄関扉の向こうからこもった声が聞こえた。「どうも」と答えたが、立ち去る気配がなくしかたなく、扉を開ける。
湿った空気が入り込む。にこやかに立つ隣家の主婦の背後にどんよりとした曇天が見え、今日は曇っていたのかと知る。家には大きな黒板はあるが大きな窓はなく、一階の部屋の南壁と東壁に面して小ぶりの窓があるだけでしかもそこには霞ガラスがはめられていたので、その日の天候を知ることがないのだ。ただぼんやりとした陽の光が昼の時を教えるのみだ。
林田夫人が回覧板と、遠慮がちに平たい紙包みを差し出した。
「娘と一緒にピザを作ったんです。よかったらおすそわけと思って」
たしか中学生の娘と小学生の息子がいると聞いた。
基一が受け取るのを待っているのだとにこやかにほほ笑んで首をかしげる林田夫人を見て気づき、手を出す。
「どうも」
基一がそう言って受け取ると、林田夫人はほっとしたようにしゃべりだした。
「奥様、おでかけみたいですね。さっきお友達とにぎやかに車で出て行ったのをお見かけしましたよ」
「ええ。まぁ」
「旦那さん、お留守番なのね」
「はぁ」
「いいですね、優しい旦那様」
相槌を返すのは間が抜けているようで基一は無言でいる。
「ああ、これ、生地からつくったんですけど、冷蔵庫に入れておけば明日でも大丈夫ですよ。オーブンはありますか? なくてもグリルで焼けるし、トースターでも大丈夫なのよ。奥様と一緒に召し上がってくださいね」
「はぁ。どうも」
林田夫人は自分のアドバイスが基一に伝わったか確認するかのように基一を見つめ何度かうなずくとにこやかな微笑を残し、自らドアを閉め、去って行った。
紙包みを開かぬまま冷蔵庫にしまう。回覧板を確認する。廃品回収の日時の知らせと、老人会主催のお茶会の案内だ。テーブルに置く。
隣人の訪問でかすかに入り込んだ新鮮な外気に、土曜の午後の静けさが増した気がした。ひとりの時間の重みもまた急に増したような気がする。雨が降りそうだなと思う。二階に上がり、ベランダに干した洗濯物を廊下に干しなおした。雲の流れが速かった。風はそれほど強く吹いていなかったから、上空の気流だけが移動しているのだろう。梅雨入り前の初夏のような気候がしばらく続いていて地上には暖気が滞留している。それが徐々にじっとりと湿り気を帯び始める。山から涼しい風が吹くと雨が降るのだ。土の匂いと新緑の青臭い匂いと共に下方の隣家の庭先から電子音が不断に流れてくる。見ると、数人の少年が縁石に座り込んで携帯ゲームに興じている。ひとりひとつずつ手にし、それぞれがそれぞれの画面を凝視して指先を動かしていた。まるで堅い殻の木の実を食そうと必死になっている子猿たちのようだと基一は思う。その向こうにある家庭菜園というにはいささか立派すぎる、しかし農家のもつ本格的なものほどの広さはないやさい畑があり、さきほど基一のところを訪れた林田夫人がしゃがみこんで草取りをしていた。ときおり顔を上げ少年たちに何かを言う。少年たちの誰もが顔も上げずにいる。そのなかにおそらくいるだろう林田夫人の息子らしき少年がうっとうしそうに顔をしかめ、口を動かした。わかったよ、とか、うるさいな、とか、おそらくそんなことを言ったのだろうと推察する。
ベランダから書斎にもどり、パソコンを立ち上げる。仕事でもしようかと思うが、手につかないだろうことは起動画面を見たとたんにわかった。ネットニュースをチェックして、単純なカードゲームを何度かして、シャットダウンする。二階は一階とは違い透明ガラスの窓がついているため、外がよく見えた。ゲームに飽きた何人かの少年が棒を振り回している。座り込んでいまだゲームを続けているひとりの少年に口々に何かを言う。少年は背を向けゲームを続ける。棒を持った少年たちはひたすらにひらひらと走り回る。ゲームがしたければ家に帰ればいいのにと基一は思う。彼らをこの家に招き入れたらやはり黒板をひっかき騒ぐのだろうか、と西面の黒板を見、思う。窓ガラスからの外光を淡く白くひし形に照らし映している。窓の向こうで隣家の背後にある防風林が波打つように動いた。針葉樹と広葉樹の混在した道側の雑木林もがさがさと鳴り始める。風が出てきたのだ。少年たちの叫び声があがる。隣室のベッドに寝転ぶ。田舎の人間は鬱陶しいものだ、と思いながら目を閉じる。
がたがたと雨戸を揺らす風の音と空腹で、目を覚ました。
あたりはすっかり暗くなっている。
カーテンを明け放した窓から、夜の闇より濃い青黒く浮き上がった山影と雑木林の影が見える。風が強い。豊かに茂った葉を振り払うように激しく揺らす枝々が冷たい補虫灯の光に照らし出されていた。カーテンを閉める。
階下に降りる。明かりを点ける。妻はまだ帰っていないようだった。つけっぱなしだったテレビにはニュースが流れていて、まだ七時前だと知る。夏至に近いこの時期、平地なら八時近くまで明るいはずだが、西側に山が迫立っているので日没が早いのだ。テレビが国際情勢といくつかの交通事故を伝える。チャンネルを替える。タレントたちが畑の中で何かを食べているのを見て自分の空腹を思い出す。蕎麦をゆでようと思う。
大ぶりの鍋にたっぷりの水を張り火にかける。沸騰するのを待つ間に汁を作る。葱を刻む。蕎麦の乾麺をストックボックスから取り出し、袋を切る。一人前ずつ束になっているものを迷ってからふたつ取り出す。空けた袋を密閉容器に入れ、ストックボックスに戻す。湯はまだ沸かない。
透明の水は微細な縞を帯び、対流を始める。鍋の底や壁に細かな気泡が発生する。やがて気泡は大きくなり、水面をまろやかに押し上げ、波立たせた。基一は蕎麦を沸騰した鍋にぱらぱらと投入した。
湯は大量でなければならない。一本一本が余裕をもって沸騰した湯の中で動き回り、余分な打ち粉を払落してくっきりとした茹で上がりに仕上がるだけの必要な容量だ。基盤を収める函体も十分な容量を確保できれば何も問題はないのだ、湯の中で奔放に踊る蕎麦を見ながら基一は考える。蕎麦は絡みそうで絡まない。それぞれが独立し、熱変化を成している。タイマーのベルが鳴る。火を止める。すばやく湯を流し、水にさらす。水流の音がキッチン空間を満たす。
水道を止めてもかすか水の音は続いた。東の窓に雨粒が打ち付け始めたのだ。風もあいかわらず強い。からからと地面を何かが風に飛ばされていく音がした。昼間子供たちが振り回していた棒切れかもしれない。田舎の人間の馴れ馴れしさはたしかに鬱陶しいものだが、この風雨が充分にかき回し隣家の気配すら感じられない居住密度の粗さにおいては許可されるのかもしれないと基一は思う。
問題は干渉だ。
あるシステムとあるシステムの干渉が熱設計に影響を及ぼすこともある。または、あるシステムと環境の干渉。この干渉はしかし計算では予測できないことが多い。ある程度の感覚的な予測とそれに基づく試作品の運用試験によって経験的に割り出すしかないのか。やはり、いくつかの試作品をまずは作ってみるしかないのかもしれないなと基一は思う。月末までにプレ試作のデータを揃えそれを踏まえた最終的な試作品を完成させるべきだろう。
蕎麦は固めでうまかった。半分食べ、半分をラップし冷蔵庫へしまう。冷蔵庫には紙包みがあった。そうだ、ピザがあったのだ。が、林田夫人は奥様と食べてほしいと言っていたのだから、明日にでも妻と一緒に食べればよいだろうと基一は冷蔵庫の扉を閉める。
(あらすじ~第二話)
(第四話~)
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