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【恋愛小説】「住む女」第七話




第七話

 その夜、社長はめずらしくお酒を飲んでいた。
「遠慮するなよ」
 玄関の引き戸を勢いよく開けた社長は、ニッポリの肩につかまりながらそう言う。玄関の土間から廊下の床はニッポリの膝の高さくらいあって、だから廊下に立つわたしと土間に立つニッポリの目の高さは同じくらいにあった。ニッポリはちらとわたしを見て、そのなれない視線の高さに苛立つように横を向く。社長はニッポリを突き飛ばしながら框に上がり、今度はわたしの肩を抱いた。お酒の匂いのする熱い息が頬に掛かる。
「どうぞ」とわたしはくすぐったさに耐えながらニッポリに言う。社長はニッポリがためらっていても構わず奥へと入っていく。社長が消えて一層戸惑っているニッポリにわたしはもう一度「どうぞ」と声をかけた。
 ニッポリは黙ったまま、下を向き靴を脱ぐ。その重そうな黒い革靴を脱いで靴下で廊下に立ってぎこちない表情を浮かべるニッポリは、なんだか世間ずれしていない未成年みたいだ。
「大きな仕事が決まった」
 社長が陽気に言う。
「こいつも頑張ってくれたからな」
 サッポロビールの大瓶をニッポリのコップに傾けながら言う。社長の声はいつになく大きい。
「いえ。自分は」
 ニッポリは持ったコップの泡を見つめながら首を振る。
 わたしは台所へ立つ。
「飯はいらない」
 社長は陽気に言う。めずらしい。
 ししゃもを網に並べ、コンロに火を点ける。あさみさんにもらったごまよごしをタッパーから別の器にうつし、白子を小鉢に差す。キャビアの缶を開け、ビーフジャーキーをお皿に並べる。社長の声は大きい。でも何を言っているのかよく分からない。ししゃもがじりじりと言い出す。一尾一尾菜ばしで返し、火を弱める。箸を二膳、竹細工の箸置きと一緒にお盆に揃える。つまみのお皿もそこへ載せるのだけれど、載せきらない。お盆が小さすぎるわけではないから、なんとか載せる場所をうまく組み合わせれば載せきれるような気がする。ごまよごしと白子の小鉢を入れ替えたり、ビーフジャーキーのお皿とキャビアを載せたクラッカーのお皿を入れ替えたり、箸と箸置きを斜めに立てかけたり、それぞれのお皿の端を重ねて微妙に傾けたりして、しかしそうするとあまりに微妙すぎるバランスで持ち上げられなくなったり、そんなことをしていると、コンロの上のししゃもの腹がぷちんとはちきれて卵が飛んだ。考えてみたらまだここにししゃもが加わるのだ。二度に、三度に分けて、ゆとりを持って運び込むのがいいかもしれない。
 祖母のところには時々お客が来た。お酒の好きな人だった。祖母がその人のために用意するつまみのお皿のひとつひとつの彩りや、それらを動かす祖母の手を眺めるのが大好きだった。祖母が楽しそうだったからかもしれない。
「さて、がっちり稼ぐぜ。円安様様だな」
 社長が陽気に言う。わたしは座卓の前に膝をつく。
 第一班は箸と竹細工の箸置きと小鉢で、まず箸を手に取り座卓に下ろそうとして先に箸置きを置かなきゃいけなかったと気付く。一度持った箸をまたお盆に戻し、箸置きを手に取り直す。
「今夜は祝杯だ」
 社長は大きな声で言い、わたしはその社長ににこりと笑って返す。ニッポリは相変わらず自分のコップの中の泡を見つめている。第二班を取りに立つ。残りは平らなお皿ばかりでかさばりそうだ。ビーフジャーキーはもう少し小さな器に変えよう。それでも白子とキャビアクラッカーとししゃもと全部が載せきらない。本当に不器用な子ね、とよく怒られた。ああもう、本当にとろいんだから、とベテランの仲居さんが怒鳴った。思い出したくないことを思い出してしまって余計に焦る。キャビアクラッカーとししゃもをお盆からどけて持ち上げ、ふと思い直し、ビーフジャーキーとししゃものお皿を取り替える。
 六十三才で祖母が死ぬまで、その人は家にやってきていた。祖母と同じくらいの歳だったろうか。そのときにはいつも資生堂のおしろいの匂いをさせていた。口紅の色が濃すぎるんじゃないかなと子どもながらにはらはらした。
「いいから座れよ」
 社長が言う。焼き具合のちょうどいいししゃもが香ばしい匂いを引いて座卓に置かれてもそこには目も向けず、社長はじっとわたしを見る。
「ちょっと待っててください」
 わたしはあわてて第三班のお盆を運び込み、座卓の前に座る。それを待って社長はサッポロビールの大瓶を掴み、傾ける。わたしにはコップがないのにそんなの構わずそのまま瓶を傾ける勢いだったので、わたしはもう一度「ちょっと待っててください」と言って瓶の口を押さえながら立ち上がり、台所からコップを持ってきて座り、優勝トロフィーを持つ人みたいにビール瓶を持つ社長の前に、それをかざした。社長は黙ってそこにビールを注ぐ。わたしが飲み干すと、社長はやっと納得したように自分のコップも空けた。
「つまみです」
 わたしは座卓を指して二人に言う。なんとなく二人ともそこに何があるか気づいていないみたいに見えたからだ。社長はひたすらビールをかっ、かっ、と飲み、ニッポリはその粒を数えるみたいに、ひたすらビールの泡を見つめてる。それがつまみだとは分かっていても、それが自分たちに振舞われたものだとは思っていないのかもしれない、だから言った。
「食べてください」
 ニッポリがうなずく。やっぱり遠慮していたのだ。でも社長は相変わらずただただ飲み続けている。
「これ、ししゃもです」
 ししゃものお皿を社長の方へ少し引く。とりあえずししゃもが一番そそられるんじゃないかと思って。
「子持ちです」
 はちきれた青い腹からのぞく肌色の卵はより一層そそられるだろうと思って。
 社長がおもむろにわたしの手を掴み取った。わたしをじっと見る社長の目はそういうときの目で、やっぱり着物を着てなければするんだとちょっと安心しつつ、でも、だけど、ニッポリがいる。
 社長の瞳は底なしの穴みたいにうつろで、わたしを見つつ見ていないそんなふうだった。酔ってる。社長はお酒に弱い。わたしよりも全然弱い。だからあまり飲まない。でも今日はたくさん飲んでいる。だからニッポリがそこにいることが分からなくなってるのだ。わたしは社長の手に手を添えてそっとほどこうとする。けれども社長はよりいっそう力を込めてわたしの手を自分のほうへ引き寄せる。半腰を上げたわたしは勢いで社長の胸に崩れ落ちる。
 社長はわたしの口をその口で塞いだ。サッポロビールの味がする。社長の舌がわたしの歯を割り込んで、わたしの舌にからみつく。社長の肩や首筋や耳を押し退けて離れようと試みる。けれども社長の力は強い。今までにない力だ。その力の強さを感じながら、ああやっぱり着物着てないとするんだと安心しながら、でもアルコールに酔ってないわたしはそこにニッポリがいることを知っていて、やっとの思いで社長の顔を引き離して、きれぎれの声で「待ってください」と言った。けれどもそれで社長は待ったりしなくて、襟元から手を差し込み乳房を掴んだ。喉から変な声が出た。もう一度わたしは社長の耳元で「待ってください」と言う。社長の手が乳房を掴んだまま大きく動くたび、ワンピースの胸の小さな透明なボタンが外れて、肌がむき出しになっていく。社長はそこへ口づけし、乳首をくわえようとしてじゃまされる大きな花模様の紫色のワンピースを引き裂いた。
 ニッポリが立ち上がった。下を向いたまま小さく頭を下げ、出て行こうとする。
「待てよ」
 社長の声は落ち着いていた。酔ってなんかないのかもしれない。
「座れよ」
 社長の声はいつものように無感情にニッポリに指示するそれそのものだった。胸をはだけさせられているわたしがまるで場違いに思えてくる。変な風にすごく恥ずかしい。社長の手をよけながら襟を必死に合わせる。
「いや、自分は」
「座れ」
 ニッポリの言葉を遮って社長は繰り返す。ニッポリは擦り傷を触られたような顔をして、すがるように社長を見た。そしてまたうつむき、そのまま座り込んだ。
 正座をして膝の上でこぶしを作りじっとしているニッポリを視界の端に見ながら、隠れるように社長の大きなからだにすがりつき、そして奥に離れる。社長は覆いかぶさるようにわたしの体を押し留める。驚いてわたしは足を蹴り上げてしまい、座卓をがたんと揺らした。ししゃもが一尾お皿から跳ね落ちた。社長はそれをとがめるようにわたしの足を押さえ込み、そのままワンピースの裾から手を入れ、下着を下ろした。
 関係ないことを考える。庭の雀は凍っていた。猫が咥えていた小雀は今夜も庭で凍っている。朝、頭をちぎられて、霜柱の立つ土の上で、それは凍っている。つやがあったはずの羽はぼさぼさに逆立ち、丸く膨らんだ白いお腹はかちかちに硬くなった。真夏だったら腐ってかたちもなくなっていくのだろうけれど、毎朝凍りつく冬の地面の上ではいつまでもその姿のままになってる。早く腐って、溶けて、雑草や小石や虫たちと一緒に土の中に混じりこんだらいいのに。庭の土にはどれだけの生き物が溶けてるんだろう。家はただじっと見てる。そういうのをただ、見続けてる。社長もやっぱりこういうことをするんだ。結局そうなんだ。涙を我慢してたらおしっこがしなくなってきた。しているときよくおしっこがしたくなるのだけれど、でもいつも最後まで我慢する。我慢しているときの方が快感が深い気がするから。そしてたいてい、終わった後にはもうしたくなくなってる。
 けれど我慢できない。
 乳房の付け根を口づけする社長に言う。
「あの」
 社長がゆっくりと顔を上げる。
「あの、おトイレに行きたいです」
 社長はしばらく黙り、そして言った。
「我慢しろ」
 睨み付けるその目が怖くて、やっぱり我慢しなければいけないかな、と思ったけれど、でも我慢できない。許してくれなくても、殴られても、それでも我慢できない。
「我慢できないです」
 社長の二つの目を見上げる。情けない顔をしたわたしが二人いる。ふと瞼がそれを遮り、社長のからだが少しずれる。わたしは身を返しながらそこをすり抜けた。腰が立たなくて、茶だんすにつかまりながらどうにか立つ。足首にひっかかった丸まった下着を少し迷って履かずに脱ぎ、座敷を出た。
 トイレでしゃがみこんでいると、がらがらがたん、と音がしてニッポリが帰ったのを知る。おしっこは一滴も出なくて、代わりの涙も出なかった。どんどんどん、と木の扉が激しくたたかれ、トイレを出ると、青い顔をした社長が飛び込んで便器に向かって吐いた。


*イラストはミカスケさんです。いつもありがとうございます。

(あらすじ~第六話)


(第八話~)

https://note.com/toshimakei/n/n043b9a94c742

https://note.com/toshimakei/n/n8f95cd484e91











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