【恋愛小説】「発火点」第一話
あらすじ
研究員の基一と元舞台女優の妻は、価値観や感性がまるで違う夫婦。それでも互いに最も自分らしくいられる相手だと強く惹かれ合っている。二人の結婚生活は穏やかで幸せに満ちていた。ただ、二人の性的関係を除いては。
あるとき、基一は妻の友人と関係を持ってしまう。以来、ずるずると不倫関係を続ける基一。
妻は、基一と友人の関係を知っていた。最初に関係を持った時、妻は寝たふりをして二人の行為を盗撮していたのだ。妻は、友人を抱いたときの基一の表情にのみ欲情できるという。もういちど盗撮させてほしい、と懇願する妻。狼狽し、拒絶する基一。
ゆがんだ、それでもピュアで奇妙な夫婦関係は、やがてゆるやかに発火点に向かっていく。
第一話
県道の急な下り坂を下り、国道へと出る。
朝七時前のバイパスは空いていた。
川沿いの片側二車線はゆるやかにカーブを描く。錆の浮くガードレールが、朝日に白く照る。ときおりスピードを上げた大型トラックが追い抜いていった。中央分離帯に高々と生えそろっているセイタカアワダチソウが揺れる。乗用車はまだ、ほとんど走っていない。山のすそ野を辿るように黒いアスファルト道路が前方に下っていく。下り坂の先には県庁所在地のごつごつとした街並みが白々と広がっている。基一は遠くを見、あえてゆっくりと車を走らせる。
黒板のことを考える。黒板を引っ掻く音はなぜあんなにも不快なのだろうか。黒緑色の板に爪を立てた瞬間からあの不快な音を想像し、肩をすくめ耳をふさぎたくなる。爪の先と黒板の接触から移動の瞬間微細な振動は始まる。腕、首筋、後頭部へと、神経を走る。
ワンセグに切り替えてあるカーナビゲーションシステムになじみの気象予報士が登場する。どこかの海浜公園だろうか、背後に薄青色の水平線が見える。ボリュームを上げる。天気図の描かれたボードを掲げている。
問題は黒板なのだ。誰もが嫌うその不快な音を、たとえば少年時代、あえて自ら発生させて騒ぎ立てるクラスメートたいていが男子児童だが、彼らはいったいなにがしたかったのだろう。周りが顔をしかめ抗議の悲鳴を上げるのを楽しんだのだろうが、最も強烈に不快を感じるのは爪を立てる本人そのひとだ。ばかなのだ、少年はすべからく。ばかかあいつら、と当時も思っていたが、自分も少年である以上彼らと遜色なくきっとばかだろうと思うくらいの謙虚さは持ち合わせていたからもちろんそんなことは口にも態度にも出さなかった。ただ遠巻きに見ていた。そしていま、自分はとっくに少年ではない。だから遠慮なく言えるがやはり少年はばかだ。少年は言うだろう、つまらない大人だと。たしかに。こうして毎日生真面目に仕事へと向かう自分は大人だ。朝の弱い妻がまだ眠っている早い時間に家を出るのは、渋滞を嫌うからだ。そして、何より、パフォーマンスの高い仕事をこなすため、ぎりぎりの時間に職場に駆け込むようなまねをしたくはない、そんな大人だ。別に悪くはないと基一は思っている。こうあるべきだと思うし、こうある自分を不快には思わない。右手に伴走する川は青緑色にうねり、波立つ泡が朝日に白く輝いていた。カーエアコンは適温の風を吹き出す。画面はCMに切り替わっている。天気予報を聞きそびれた。
信号待ちで停車する。
自宅を出て初めて出くわす信号だ。ここまでくるとほぼ山は下り終え、さっきまで見下ろしていた白い街並みのなかへと突入していく。市街地中心部を避けたいくつかの交差点を通過し、郊外にある工場に到着する。パスカードを機械にかざし敷地入口のゲートを開け、中へと入る。指定はないがいつも決まった場所に駐車し、併設されている研究所へと向かう。
自宅に大きな黒板があるのだ。
自宅に黒板があるというのはあまりあることではないかもしれないが、もともとは学習塾だった山の中腹の大きな農家の庭先に立つ離れを、基一夫妻が買い取ったのだった。二階建ての木造の建物で、教室として使っていた一階二階ともにがらんとした二十畳ほどの部屋に、一階には小さなシステムキッチンを入れワンルームのリビングダイニングキッチンとし、瘤のように北隅にユニットバスを増築した。二階はカーテンでふたつに仕切りベッドルームとパソコンを置き本やDVDやCDをつみあげた書斎と称した部屋を作った。そしてどちらにも西の壁に大きな黒板が掲げられている。リフォームの際に撤去しても良かったはずだ。が、おもしろいからこのままにしとこうということになったらしい。だから彼ら夫婦の自宅には大きな黒板がふたつある。
爪を立てようなどとは決して思わないが、爪を立てて引っ掻いたら不快だろう、と目に入るとつい思う。思うと、その不快感を思い出す。ばかばかしいことだが、いっそのこと一度爪を立てて引っ掻いてみようかと考える。黒板はそこにある。毎日、ある。しかし決して引っ掻くことはない。俺は大人だからだ、と基一は思う。
パスをセキュリティに通し、研究所へと入る。入所を許可する信号音を聞いて、基一は通勤の車の中で繰り広げていたとりとめのない思考を研究所内まで引きずってきていたことに気づく。かすかに狼狽する。たいがい工場のゲートをくぐった時点で意識が仕事モードに切り替わるはずだった。集中しよう、と思う。いまは新しいラインの熱設計が困難な局面に差し掛かっている。
家に帰るとがちゃがちゃとしたロック音楽がかかっていた。ダイニングテーブルの上に置いたコンポの周りにCDケースがいくつも散らばっているから、おそらくそれのうちのどれかがかかっているのだろうが、興味がないのでチェックしない。音楽のサブスクリプションサービスを使えばいいのに、せめて、アイポッドを買えば片付くのに、と思う。が、買ってあげようかと言う基一に妻はすかさずいらないと言う。何度か言うが、何度もいらないと言う。ジャケットを見てこれが聴きたいあれが聴きたいと決めたいのだと言う。音楽に興味のない基一はそんなものかと思う。ならばそれでよいのだろう。それよりも、彼は帰宅したらまずは地上波テレビをつけたくなる。見たい番組があるわけではない。とりあえず、動く絵が欲しい。動画サイトや映画配信のような能動性を要求しない絵。リモコンを手に取り黒い画面にかざす。画面いっぱいに大笑いする芸人の顔が映し出される。音量を絞ろうとする前にキッチンに立つ妻が音楽を止める。ロックのかわりに大勢の人間の笑い声が部屋に満ちる。別に消さなくてもいいのに、と基一は思う。動く絵がそこにあれば、音声はまったく無関係にあってもかまわないのだ。仕事で精密機器にとりかこまれているせいだからだろうか、そうした雑多な空間に身を置いていると却って頭の中がしんとする。安らぎを感じるのだ。しかし、聴きたいと思っていない人がいると音楽は濁るから、と妻は言う。だからたいてい基一が帰宅すると音楽を止める。だから基一はテレビの音量を下げない。
ジャケットを脱ぐ。
腕時計を外す。
妻がテーブルに皿を並べる。
そもそも熱設計は矛盾をはらんでいる。耐熱性と放熱性。耐熱性はいい。基板へのはんだ付けに耐えられないものは使えるはずもなくつまり製造段階でまずクリアすべき問題のひとつであったからこれまでずっと考えられてきた。素材の開発も進んでいる。問題は放熱性だ。昨今の小型軽量化省エネ傾向に伴いスペース的にもエネルギー的にも放熱による負荷をいかに小さく抑えることができるのか。こちらを追求するとせっかくの耐熱性も危うくなる。ひとたび自社製品から発火事故が起きようものならそこで失われる信頼による損害は決して金額に換算できるものではない。ハコを大きくすればいい、もしくは、ファンをつければいい、というざっくりとした解決で乗り切る時代ではもうない。振動、騒音、起動のための電源確保、そしてなによりスペース設計上ファンはできるだけ使いたくない。通気孔と空間対流、放熱抵抗で持越ししたい。許容温度上昇を何度に設定できるか。締め切りは月末だ。
小さな電子音が鳴り、見ると妻がビデオカメラを構えている。
「なんだよ」
向けられたレンズの下に録画中の赤い小さいランプが点灯している。
「仕事のこと考えてる」
妻が言う。
「ああ」
「仕事のこと考えてるキイチの顔好きだよ」
「でも、撮るなよ」
「いいじゃない」
「いやだよ。それより食べよう」
妻は肩を竦め、ビデオを止める。
テーブルに置いたビデオのレンズがじっと自分を見ている気がして、その位置を手でずらす。
この家の記録映画を撮ろうよ、と引っ越してきた当初妻が、友人の誰かから譲り受けた古いタイプの大ぶりなビデオカメラだ。妻は面白がって家の中や外をあちこち撮影し、基一にもレンズを向けた。よせよ、と基一は照れくささに掌でそれをさえぎった。
「キイチも撮って」
「俺は上手く撮れないよ」
「そんなことない。思った通りに撮ればいいんだから。わたしのこと撮ってよ」
そう言って基一に押し付けた。言われるがまま妻を撮影した。まがりなりにも人前に立つ仕事をしていただけはあった。カメラの中の妻は、別人のようにくっきりとした存在感を放っていた。見られるということを職業的に意識した人間が放つ空気なのだろうと基一は感心し、見惚れた。そして、そんな妻が自分の知らない遠い人間のような気がして、すぐに撮影をやめた。それきり手にしていない。妻はときどき手にして気まぐれにいろいろ撮っているようだった。
黒板の前で食事をする。妻はそしてときどききまぐれに手の込んだ料理を作る。今夜はフォカッチャだ。そして鶏肉のトマト煮。
「大家さんにハーブもらったから」と言う。
この家は貸家ではないので正確には大家さんではなく、地主さんというべきだが、何度か指摘しても妻はいつも「大家」と言う。さらに細かいことを言えば畑にハーブなどを栽培し、庭先の離れに住み着いたよそ者に親しく声をかけてくるのは、地主の長男の嫁である人物だろうと推測され、地主さんそのひとですらないのだ。が、そこまで細かいことは基一もさすがに言わない。林田さんとか、隣の奥さんとか、言えばいいのに、とも思うが、そうすれば気にはならないのに、と思うのだが、それも言わない。通じるからいい。
「うまいね」
ちぎったフォカッチャをほおばり、咀嚼し、基一は言う。
「うまいね」
と妻も言う。
「鶏もうまい」
「うん、鶏もうまい」
やわらかく煮込んだ鶏をゆっくりと味わい、のみ込み、そう繰り返すと、よかったと言って妻は基一に微笑む。
妻の料理の出来は常に良いとは限らない。が、七、八割方、うまく作る。そして妻は、それを自分の腕前とは考えず、たまたまだと考えているようだった。だから食べるときのスタンスが基一と同じなのだ。なぜか基一は、そんなところにほのかな幸福感を抱く。恋愛関係とは違う、夫婦の生活というものを感じる。
CMになり妻がチャンネルをNHKに変える。クローズアップ現代が世界経済を取り上げている。どこかの国のデモの様子が映し出される。若者たちがしきりに何かを投げつけている。妻はぼんやりそれを見つめている。
少しして基一はチャンネルを元に戻す。CMをまたいでクイズ番組の回答が発表され正解したあるいは不正解だった数々の芸能人たちが大騒ぎしている。妻は何も言わない。フォカッチャを口に運び、ビールを飲む。妻はテレビにそんなに興味がない。
クイズ番組を基一は好んでよく見る。妻が席を立つ。冷蔵庫から缶ビールを取り戻ってくる。世界遺産て無限ね、とテレビ画面に視線を投げ、座りながら妻が言う。
「無限?」
「そう」
「いや、世界遺産の数は有限だよ」
「数じゃなくて、なんていうか、……節操?」
そう言いながらビールを飲む。基一は飲まない。飲めない。冷やした烏龍茶を飲む。
少し考えて基一は「そうかな」とつぶやく。
ぐっと妻はビールを飲み干し、大きく息を吐く。少し厚めの唇がビールに濡れる。
「そうだよ」
後ろ手に束ねていた髪をほどき、広げた五本の指で長い髪をかきあげながら妻は言う。化粧気のない頬がかすかに赤みを帯びている。白い指先が唇のビールを拭う。
世界遺産にまつわるクイズは得意だ。洋の東西を問わず、文化、自然というカテゴリーも問わず、結構な数を知っている。写真の一部を見てその遺産の名前と所在国を当てるのは、テレビの向こうの演者たちよりたいがい早い。
「だからか」
妻が上目遣いで基一を見つめて言う。
「何が?」
「世界遺産系のクイズに燃えるの」
「もえる?」
「うん」
「誰が?」
「キイチ」
「俺?」
「そう」
「無節操だから?」
「そう」
ふふふ、と妻は基一を見て笑う。少し酔い始めている。目が潤んでいた。
「よくわからないけど」
「挑み甲斐があるんでしょう」
「……ああ、たしかに」
たしかに得るべき知識は毎年増え続け、挑み甲斐がある。頬杖をついて妻が基一の顔をたのしそうに見ていた。少し気恥ずかしくなる。
西側の椅子に座った妻の背後には黒板があった。緑がかった黒色が妻を縁どる。妻がビールを仰ぐ。上へ向けた顎先から鎖骨へまっすぐな筋が通る。大きく開いた襟元に青く血管のラインが見えた。基一の掌には少し余るほどの乳房に向けて走っている血管だ。缶をつぶし、妻は立つ。空になった食器を片づける。黒板が取り残される。東側の椅子に座った基一は漆黒と対峙する。目をそらし、CMになったテレビ画面を見やる。
(第二話~)
https://note.com/toshimakei/n/n90d054e0f141
https://note.com/toshimakei/n/n53e680b6e0f7
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https://note.com/toshimakei/n/n7656acce162d
https://note.com/toshimakei/n/nc897f373ad38
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