【恋愛小説】「発火点」第四話
第四話
妻が帰ってきたのは十時をすぎていた。
疲れているようだった。
「何か食べる? 蕎麦があるけど」
基一はソファに座り込んだ妻に話かける。妻は無言で首を横に振った。
「じゃあ何か飲む?」
「いらない。ねぇキイチ」
妻は基一に向かって両手を差し出した。基一はその両腕の間にはいりこむように妻の隣に座った。妻は基一の首に両腕を絡ませ首筋に自分の頬を押し付けた。ひんやりと冷たく、一瞬身震いする。雨に濡れた髪が基一の顎先をくすぐった。
「風呂に入ったら。風邪ひくよ」
そう言いながら妻の体を押し放そうとすると、妻は力を入れ、それを阻む。
ねぇキイチ、と耳元でつぶやく。
どうした?
基一もそっとつぶやく。
首筋に妻の唇が押し付けられる。雨に濡れた頬とは対照的に熱を帯びていた。盲目の軟体生物のように首筋から顎、そして基一の唇にまで到達する。むさぼるように隙間から舌を差し込んできた。基一も応えるように舌を絡ませる。雨が強く窓を叩いた。風が木々を鳴らす。テレビの中の芸人が自虐ネタを言って笑う。妻は手を伸ばしリモコンでテレビの電源を切った。
こんなときの妻には何かを確認するような必死さがあった。迎えに来た親に縋り付き必死にそのなじんだにおいとぬくもりを確認する迷子のようだと基一は思う。妻の焦るような愛撫を受けながら、ゆっくりと落ち着くのを待つ。決して最後まではいかないことを基一は知っていた。
妻は性行為を受け入れられない体だった。妻から求める時も、基一から求めていく時も、基一を受けとめはしたが、最後の段階でどうしても固く閉ざし、乾いたままの性器の激しい苦痛を訴えるのだった。といってもちろん処女ではない。いつからかは分からない。一時的な症状なのかもしれない。気持ちは求め受け入れようとしているのが分かったから基一から強いることはしなくなったし、ただ特に妻から求めてきたときだけは試してはみる。それでも、最後まですることはなかった。そのたびに妻はショックを受け、基一への申し訳なさを口にし、泣いた。基一は慰めた。そして、ひそかにあきらめた。別に最後に到達することだけが重要なのではない。妻が求め、自分が抱きしめる、それだけでいい。そう思った。基一は性的対象として妻を見ることを自身に禁じた。基一自身も、自分に開かせない妻の体の前で萎えることに少なからず精神的な苦痛を感じてはいて、同時にそうした自分の苦痛は妻の肉体的な苦痛に比べてあまりに身勝手で横暴なもののような気がしたのだ。
以来、時折見せる妻のこうした高ぶりを、基一はできるかぎり冷静に受け止める。
しっかりと抱きとめ、口づけにもこたえる。たとえば、発作の介抱だと考える。無理に抑えず、ゆっくりと波を受け止め、同調しながら落ち着かせていく。性的回路は開かない。きわめて利己的で粗暴な自分のそれは、夫婦とは無関係なところで自己処理すべきだと考える。
むさぼるような口づけで基一の体を確認しきった妻は安心したように身を委ねた。深いため息をついた妻の、基一は耳にその吐息の熱を感じる。
「キイチ」
「うん?」
「ただいま」
「うん」
ふたりは軽い口づけを交わし、ソファに並んで座りなおした。
「面白かった? 企画展」
「うん」
妻は答え、基一の肩に頭を靠れさせる。
そのまましばらく何かを考えているようだった。
外が静かだ。風がやんだのだ。カーテンの隙間から外の深い闇がのぞく。
「くだらないのもあった」
妻が言った。
「けど、くだらなさがうまく言葉にできない。だからとりあえずみんなおもしろいような気がしちゃって、そういうよこしまな自分がちょっとやだ」
「そうか」
「うん」
「俺にはよく分からないけど」
「うん」
「よこしまなのは悪いことではないよ」
「そうかな」
「純粋って横柄だよ」
「そうか」
「うん」
妻が基一の手を取り、一本一本の指を自分の指と絡め握りしめた。そして、ふふふと面白そうに笑った。
「何?」
ううん、別に、と妻はなおも笑う。
「キイチらしい」
そして、「おなかすいた」と言った。
「蕎麦食べる?」
「うん」
基一は立ち上がり、冷蔵庫に向かう。
「そうだ、ピザもあるよ」
冷蔵庫の前で基一は言う。
「隣の人がくれたんだ。手作りだって」
ふうん、と妻は言い、蕎麦がいい、と言った。
(あらすじ~第三話)
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(第五話~)
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