続・根津山(明治天皇と太田道灌)
前回記事「根津山」の続きです。
合わせてコチラの記事もどうぞ。
前回記事の中で「明治天皇御野立所跡」について少し触れたのですが「高田町史(昭和八年)」に下記の記述をみつけました。
大田道灌が旗を洗ったという「池」ですが「水窪川」の水源と思われます。
豊島区立郷土資料館研究紀要『生活と文化』第11号/2001年12月25日発行
では、「美久仁小路」の中心部分が湧水地と記述されています。
また元「人生座」の辺りという記述もあります。
下記に人生座付近の「池(蓮池?)」について記述あり。
豊島区郷土資料館「かたりべ 48」
https://www.city.toshima.lg.jp/129/bunka/bunka/shiryokan/kankobutu/kataribe/documents/kataribe48.pdf
何れにしても池袋駅東口あたりは「蟹ヶ窪」と呼ばれておりましたから湧水が複数あったのかも知れませんね。
サンシャイン60通りの入り口のロッテリアあたりはだいぶ低く、数年前(2010年代)の大雨で水没しています。
それにしても「太田道灌」どんなルートで石神井城から(石神井城へ)移動したのでしょうか?
また新たな謎が増えてしまいましたが、現時点で思い浮かぶ道筋は「鎌倉街道」と「清戸道」です。
「清戸道」の傍らには道灌が斥候を置き寝ずの番をした「不寝見山(鼠山)」の話しも伝わっています。
また「不寝見山」は「源頼朝」という説もアリ、下落合の「七曲坂」を開いたのは頼朝という伝もあるのでかなり古くから往来があった道筋と思われます。さらには「源義家」の弦巻川伝説も・・・
石神井城攻めの前にどの城を攻めたのか、上中里の平塚城、練馬城と諸説あるようですが、平塚城の通説は現在は支持されていないようです。
となると、どの時点で立ち寄ったのでしょうか?
旗を洗ったのは「戦の後」と考えられますので、やはり「江戸城」への帰路でしょう。
また続きを書きたいと思います。