見出し画像

【短編小説】Back in The U.S.S.Rを聞きながら(2)

続きーこの小説はオチが全くありません。悪しからず。

2.Moscowにて

 ここで、モスクワで一泊する日本人のグループが出来た。合計12名。女子大生のグループ3名。髭を生やして色は浅黒く自己主張が強そうなインテリ風の中年男性。もう一人は40代らしき男、日本人は、これだけだったので、急速に連帯感が生まれた。
 このインテリ風の男は、大阪大学の国際政治学の教授だった。やたらと女子大のグループを見ながら、
「あんたはまだ少しは英語ができるようだけど、あの連中はなんだ。英語の一つもしゃべれんで、遊びに来ているのか。」
と怒りを露にしている。私は英会話は自信がない。というか、英語は喋るだけでなんの価値があるのかと思っていた。海外初めてだし、アメリカ人とはモルモン教のお兄さんと話しただけの標準的日本人である。日常会話は全く知らないが、大学入試の英文法を駆使しての会話である。女子大生を、そう怒らなくても間違いなく遊びだろう。
 旅の恥はかき捨てとばかりの日本人旅行客が、世界中で恥をさらしている昨今である。女子大生が親のすねを齧って、海外旅行に出かけるのはもはや常識である。アエロフロートで節約しているだけまだましというものである。
 教授が通訳してくれて、やっとモスクワでの乗り換えの手続きがとれたらしい。海外旅行先で、自動的に日本人は上客なので、日本語とボディランゲージで通用してしまうので、日本人の英語力は低位置に温存されたままである。それにしても、語学力がなければソ連では、放置され目的地に行けないどころか、シベリア抑留されるのではないかという危機感が漂う応対である。係員の男は憲兵のように厳しい。教授のようなまとめる存在がなければ、行方不明者が二三人出てもおかしくない。
 教授は、これから宿泊した後、翌日は政情不安定なユーゴスラビアに赴くという。
 「皆大丈夫かと心配したがね。なに、そんな危険はところでない。大丈夫さ。」と教授は、聞かれもしないのに話をする。私も何が面白くて、そんな危ない所に行くのかと思ったが、どやされそうで黙っていた。
 (その翌年ユーゴスラビアは紛争に入るのである。教授が無事帰国出来たかどうか不明である。)
 
 さて、モスクワ宿泊を只で出来るというので、どんなに素晴らしいサービスかと期待した方が愚かであった。日本人ばかりの10数名の一行は、見張りの制服の男の誘導のもと、かなり古いマイクロバスに乗せられた。観光は一切出来ないということ。写真も禁止。夜のモスクワ空港から、何処に行くのかも分からない。時間は晩の9時頃のはずだが、腕時計は時差で使い物にならず、はっきりとした時間は分からない。郊外の道路を走っているのは分かるが、暗闇の中に町の光は遠くに見えるだけで、不安が募るばかりである。やはり、このままソ連に拉致監禁されても、誰も助けに来ない。そして、マイクロバスは、郊外の森林の中に入って行く。公園の中の宿舎のようなところと期待した。降りて見ると、そこは一帯が森林と公園である。その中に平屋の宿舎が、数棟建っている。
 外は外灯は殆どないので、森林が黒々と見えるだけで、公園は相当広いのは分かるが、全貌はつかめない。まず一列に並んで宿泊の受付である。女子大生の一行は、教授と共に、検閲を受けている。しかめ面した大きなおばさんが、大きな判を押している。女子大生は、教授の口利きで難なく通過。いよいよ私の番だ。ビザと旅券を提出すると、何処に行くのかと尋ねてきたようだ。「プラハ」というと、キョトンとした顔をした。おそらく発音が違うのであろう。英語でプラハは「pragueプラーグ」と発音するので、「プラーグ」と言ったら、何とか通じたようだ。ビザに無事に判が捺された。
 一行は、当然であるが女性陣と男性陣と分かれて、別の棟に入った。もたもたしていたら、時計は11時を過ぎている。昔、ソ連の公務員宿舎であったと聞いた。私は、40代のサラリーマン風の男と同室に宿泊することになった。サラリーマンの男は、福井で絵のギャラリーを取り仕切っていて、スペインに出展の交渉に行くという。実際の年齢は35歳で私とさほど変わらない。
 「シャワーあびますか。」
と聞かれて、どうぞお先にと言い、二段ベッドの上段に寝る準備をした。
 ああ、本当に明日、この状態から脱出出来るのだろうか。不安が膨らみ胸を覆って来た。ソ連のモスクワのここで、明日7時のマイクロバスにもし乗り遅れたら、一生ソ連で人生を終えることになるかもしれない。パスポートも人質に取られているので、共産党当局の思うがままである。ゆっくり寝ておれる状況ではなくなった。そんな思い巡らすうちに、いつのまにか眠ってしまった。(その夜私は奈落に堕ちる夢をみた。)

 早朝まだ辺りが暗いが目が覚めた。時計を見るとまだ5時だ。まだ暗闇であるが、緯度が高いためか空は薄明るい。どのような公園なのか見てみたいという興味に駆られた。
公園はよく整備されているように見えた。道は、塵一つ落ちてはいない。不意に前方から懐中電灯でやってくる人影が見えた。私はもしやソ連の当局に気づかれたかと驚いたが、逃げたりすると余計に怪しまれる。何食わぬ顔で向かって行った。どんな恐ろしい警官かと思ったら、身長は私くらいの犬を連れて散歩している子供達だった。犬は真っ黒のコリー犬である。子供たちは、「ニッポンスキー」と叫んだ。ええソ連は日本のことを、ジャパンではなく「ニッポン」と言うのかと始めて知った。「ニッポンがスキなのか?」と思ったが、どうやら日本人のことを言っているらしい。
 私が「イエスイエス」と身振りか手振りか分からない言葉で言うと、子供達は大はしゃぎをして、「ニッポンスキー、ニッポンスキー」と叫んだ。日本は結構、ソ連では人気があるということを後で知ったのだ。結局、子供は兄弟らしく、犬と兄弟の一人といるところを記念写真に撮ってもらった。
 バスの乗車場所へ向かった。予定より30分遅れて、6時半、マイクロバスに乗り空港に向かった。これでソ連から無事脱出出来るという安堵感が心を覆った。周囲はすっかり朝になっている。初めてモスクワの郊外の風景を見ることが出来た。走っている車は殆どが日本製である。リアにTOYOTAと大きくペンキで書かれたトラックなど、今では殆ど見た事がないような中古車ばかりであった。今朝会ったような子供達にとっては、日本のハイテクは魅力なのかもしれない。車窓から見る限りモスクワは悲惨であった。うすよごれた旧型の車が走る。エンコしているのも見られる。建物は無表情で、まるで巨大な廃墟のようだ。煉瓦つくりの建物から、買い物かごをもった主婦が出てくる。どうやらスーパーマーッケトらしい。ただ若者だけは、どの国も同じようで、楽しそうに抱き合いながら歩いている。30分くらい高速道路を走るとモスクワ空港に到着した。朝の空港であるが、結構人はいる。係の憲兵から、やっと大事な旅券を返してもらえた。乗り継ぎのプラハ行きの飛行機はもう出発の準備ができていた。
 ここで、日本人一向と分かれて、3名くらいがプラハ行きに乗り込んだ。心細さは全くない。この時点ですでに海外一人旅モードに入っていたようだ。プロペラエンジンの飛行機である。室内は、昨日のアエロフロートと同様かなり狭い。隣はロシア人の大男である。プラハまで2時間ほどのはずだから、少しの辛抱だ。
 二度目のフライトは、アエロフロートに慣れてきたせいか、あまり驚かなかった。今回ものはかなり小型のプロペラ機で、室内は狭苦しい。丁度翼の近くだったので、プロペラ音の酷さには辟易したくらいだ。少しうとうとして気がついたら、プラハ空港に着陸態勢に入った。前よりも更に着地の衝撃は少なかった。パイロットの技にますます尊敬の念を抱かずにおれなかった。
 空港から降りて、親戚から貸してもらったキャスター付のスーツケースを転がしながら、さて郊外からタクシーに乗ろうと回りを見渡していたところ、後ろから「日本人の方ですか?」と声をかけられた。振りかえると赤のミッキーマウスのセーターを着た女性である。顔はまだあどけないので二十才くらいかと思ったが、後で十九才と分かった。
「ええ。そうですが。」次々と日本人が現れるものだ。
「空港までタクシーで行かれるのなら割り勘で行きませんか。」
そういうことか。「そうですね。」と言うと、喜んで乗り込んできた。見知らぬ男でももろともしない行動力に、ちょっと驚いたが、どんなパワーの持ち主かと感心したが、人畜無害と判断されたのだろう。
 「どうしてプラハに来たのですか?」と尋ねると、彼女は今ドイツの兄の家に住んでいて、ドイツ語を勉強しているそうである。ドイツ語と英語は会話できるそうで、すごいですねと感心していると「今はそんな人はざらにいますよ。」と一蹴された。
 

いいなと思ったら応援しよう!