わたす
渡しそびれた言葉がある、
結構ある。
「言葉にしなきゃ伝わらない」とはよく言うけれど「言いそびれた言葉の方が大事なこと」とはあまり言われない。
言われないけど、言われてホッとした。
相手が受け取れるキャパシティより、伝えたい言葉の方がちょっと多かったりする。
その溢れた言葉と、そのなかにぎゅぎゅっと詰まった気持ちをどこにやったらいいか、ときどき分からない。
伝えないと、解釈の齟齬が無いように、一言一句伝えたいのにと言葉の海でもがく。伝えたいひとは岸から遠ざかっていくのに、わたしはまだ沖で言葉を探している。
そういうの、もういっそ、沖から手を振ってもいいんだ。わたしだけが探した言葉を持ち帰って、大事に棚に飾って置いていたら、それだけでいいんだ。
ホッとした。
この言葉、まだわたし、持っていていいんだ、と。
気恥ずかしく、渡しそびれる言葉もあるが、それもそれでいいんだと、ホッとした。
相手が受け取れる言葉のキャパシティに対して、わたしの言葉数が少ない時もある。
言葉を捻出するのには時間がかかる。
短い言葉でも、心の引き出しからひとつずつ取り出し、形を整え、軽くラッピングをしてから渡すのだ。
だけどときどきそれが億劫になったり、気恥ずかしかったりする。そういうときは言葉を渡すのをやめてしまう。
やめてしまった言葉はまだわたしの中にあって、渡せるタイミングを伺ってみたり、渡す予定もなくラッピングし直すだけし直してみたりしている。
いっそそのまま、棚に飾っておけばいい。タイミングが来なくてもいい。
そう思うとこのそわそわから解放されて、ホッとする。
そうした言葉たちの気配は必ずそこにあり、きっとわたしをうつくしくしている。だからだいじょうぶだ。
渡すだけが言葉じゃない。
受け取るだけが言葉じゃない。
記憶、こころの一句。
「いまだけははわたしの嘘に騙されてうちの先祖はアダムスファミリー」