『執炎』(1964年・蔵原惟繕)
清純でチャーミングなお嬢さんから、妖艶な色香を湛えた大人の女性まで、年齢を重ねるごとに、美しく変貌を遂げてゆく浅丘ルリ子の姿は、日活映画史とともにフィルムに記録されている。1954(昭和29)年、製作再開した日活が鳴り物入りで募集した、井上梅次監督の『緑はるかに』のオーディションで、3000人もの応募者のなかから選ばれ、翌年、日活の初のカラー作品で主演デビュー。以来、堀池清監督の『愛情』(1956年)、17歳で石原裕次郎の相手役をつとめた『鷲と鷹』(1957年)、小林旭との文芸作『絶唱』(1958年)などのヒロインとして、日活のスクリーンで美しく咲き続けてきた。
その浅丘ルリ子の女優としての才能を、さらに引き出したのが監督・蔵原惟繕と脚本・山田信夫のコンビだった。『銀座の恋の物語』(1962年)での空襲の記憶がトラウマとなり、事故で記憶喪失となるお針子、『憎いあンちくしょう』(1963年)での恋人の行動が理解できないタレント・マネージャー、『何か面白いことないか』(1963年)では面白くない世の中で何が生き甲斐か?を求めるダンサー、をそれぞれ演じた。この三作は、裕次郎映画でありながら、単なる青春や恋を描いたものではなく、浅丘ルリ子=現代を生きるヒロインの映画でもあった。彼女が演じたヒロインは、時には押しつぶされそうな重圧や現実と苦闘しながら、失ったもの、失いかけたものを探して、迷いながらも行動してきた。
さて、デビューして10年目となる1964(昭和39)年、日活はこれらの蔵原作品での女優としての成長著しい浅丘ルリ子のために、本格的な女性映画を企画。それが、浅丘ルリ子100本記念『執炎』だった。原作は、兵庫県但馬海岸の出身の加茂菖子の芥川賞候補作品の同名小説。それまでの蔵原映画で演じてきた、ポジティブに行動する現代女性ではなく、戦争という時代に翻弄されながら愛を貫く普遍的な女性の物語を、女優・浅丘ルリ子の美しい肉体を通して描破している。
ちなみに映画出演100本目というのは、およその数。厳密には『緑はるかに』から数えて、ちょうど104本目の作品となる。本作のために、日活は、浅丘ルリ子の相手役として新人を募集「ミスターXコンテスト」を実施。そのコンテストに応募して合格したのが渡哲也だった。結局、『執炎』の相手役には、日本映画を代表する演出家・伊丹万作の息子で、ニコラス・レイ監督のハリウッド映画『北京の55日』(1963年)に出演、国際派俳優として活躍していた伊丹一三(のちに十三)が抜擢された。
兵庫県の北部にある餘部鉄橋にほど近い、海辺の集落の網元・丸吉漁場の長男で跡取りの吉井拓治(伊丹一三)は、水産学校を出たばかりの若者。“海の衆”である拓治は、ある日、平家の落武者の末裔“山の衆”の住む山間の集落で、美しい娘に成長した久坂“きよの”(浅丘ルリ子)と再会して恋に落ちる。子供のときの出会いから七年、古い因習の残る土地で、自分たちの愛を貫く二人。
名手・間宮義雄によるキャメラの素晴らしさ。モノクロームの光と影のなか、蔵原演出は、イキイキと若い二人の楽しい日々を、美しい山陰の風景ともに描いてゆく。映画の前半、拓治が “きよの”と出会う集落のシーンは、越中五箇山にある菅沼合掌造り集落で撮影され、“きよの”の住む久坂家は、重要文化財の岩瀬家。1964(昭和39)年10月中旬。富山県東礪波郡上平村(現在は南砺市)に、総勢50名ほどのロケ隊が10日ほど滞在したと、当時の上平村の広報にある。ちなみに、菅沼合掌造り集落は、ユネスコの世界遺産にも指定されている。
そして拓治たち“海の衆”の住む海辺の集落は、能登半島は石川県輪島市、福井県越前町の越前海岸でロケを敢行。この“海と山”のロケーションが、二人の愛の光と影を投影し、悲しみのドラマをヴィジュアルで盛り上げている。そして、物語的にも重要なモチーフとなっているのが餘部鉄橋。1980年代、吉永小百合主演のドラマ「夢千代日記」シリーズや、浦山桐郎監督による映画化作品でも全国的に知られることとなった、高さ41.45メートル、長さ310.59メートルの鉄橋である。1909(明治42)年着工し、1912(明治45年)に完成。山陰本線の要として2006(平成18)年まで使用されていた。
浅丘ルリ子によると、伊丹十三と待避線で抱き合うシーンでの撮影は、汽車の通過するなか「本当に怖かった」という。拓治はこの餘部鉄橋近くの餘部駅から、戦地へとかり出されてゆく。“きよの”にとっては、この鉄道の先に、愛する拓治を奪った戦地があり、戦争がある。それゆえ、本作での鉄道と餘部鉄橋が果たした役割は大きい。
拓治は三度、戦争にかり出され、“きよの”は三度、愛する男を奪われる。そのドラマのなかで“きよの”は、可憐な少女から、初々しい若妻、そして夫への情念を燃やす女と、大きく変貌を遂げてゆく。まさに女優・浅丘ルリ子の真骨頂であり、何よりも彼女が全身全霊、肉体で“きよの”という女性を演じていることに、観る者は圧倒されるだろう。この時、浅丘ルリ子は24歳。女優として、これからさらに羽ばたこうとする、美しい時代でもある。
拓治のいとこで、東京の医専を卒業した女医・野原泰子を演じた芦川いづみの清楚な美しさと、良い意味で対称的な浅丘ルリ子のパッションが味わえる。また“きよの”の妹“あやの”には、この年、鈴木清順監督の『肉体の門』(5月公開)で体当たり演技を見せた松尾嘉代。その母にベテラン・細川ちか子と、日活映画の黄金時代を支えた女優陣の競演も見もの。
この映画の後、浅丘ルリ子と蔵原監督は『憎いあンちくしょう』『何か面白いことないか』に続く『夜明けのうた』(1965年)で “典子三部作”完成させ、1967(昭和42)年には、三島由紀夫原作『愛の渇き』を送り出すこととなる。
日活公式サイト
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