『風流演歌隊』(1937年2月1日・P.C.L.・伏水修)
岸井明さんと藤原釜足さんの「じゃがたらコムビ」による、自由民権運動の時代の「演歌師」たちの物語『風流演歌隊』(1937年2月1日・P.C.L.)。前年、ジャズ・ミュージカルの佳作『唄の世の中』(1936年8月11日)や、モダンな音楽映画『東京ラプソディ』(1936年12月1日)を演出した伏水修監督によるハイカラ時代の音楽喜劇。かと思うとそうでもない。
「書生節」の誕生に貢献した、壮士志望の藤原釜足さんと没落した家の坊ちゃん・岸井明さんの二人の、友情と対立、そして国産バイオリンを製作して財を成すまでのサクセスストーリーを、当時の「書生節」を散りばめながら展開していく。明治の壮士を主人公にした喜劇というより、国を憂う壮士の国粋主義を懐かしむムードが全面に出ているので、笑いのポイントが、これまでのモダン・コメディとは少し違う。
明治二十年の東京。なつかしの銀座の街並みがオープンセットで作られて、なかなかスケール感がある。市電も走り、ハイカラな洋装の紳士淑女が行き交う街角をバックにスタッフ、キャストのスーパーが出る。
脚本は『踊り子日記』(1934年・矢倉茂雄)などを手がけた小林勝。キャメラはハリー三村こと三村明。この時期のP.C.L.映画のアベレージの作品でもある。音楽監督は清田茂。
タイトルバックに流れるのは「敵は幾万」(作詞・山田美妙斎 作曲・小山作之助)。明治19(1886)年に刊行された「新体詩」に収録された詩「戦景大和魂」に小山作之助が曲をつけた。つまり、この映画の中では最新の軍歌。ということになる。早稲田大学の応援歌「敵塁如何に」はこの曲の替え歌。この映画が作られてから四年後、大東亜戦争時の大本営発表の音楽として使用されることになる。いわば国威発揚の曲だった。
タイトル明けに勇ましくスーパーが踊る。【明治二十年。こゝに国粋保存の言論をもって立ったは、所謂壮士の群れであった。】
田舎から堅物の青年・鈴木大助(藤原釜足)が上京。屋敷に(住んでいる筈の)甥・鈴木小助を訪ねてくるが、明治維新で旗本だった鈴木家は、土地屋敷を売却。小助に残されたのはしもたやと、亡父の遺産の鶯だけ。学生の小助は、細々と鶯の鳥籠を作って売って糊口を凌いでいる。藤原釜足さんが「小助」、岸井明さんが「大助」。そのネーミングが当時の笑いを呼んだことだろう。しかも二人は同い年の25歳。叔父だと威張っている小助は、壮士になりたいのでやたらと威勢がいい。
そんな二人の前に、美しき令嬢・ハツ子(梅園龍子)が現れる。鶯が迷い込んで来たので、籠を求めにやってきたのだ。実は、小助の狙いで、鶯を放せば、どこかの家に入る。そうすれば籠が売れるという読みがまんまと当たったのだ。お祝いに酒を酌み交わす二人。酔うほどに小助は自慢の喉を披露する。
「梅が枝節」岸井明
♪ 梅枝の 手水鉢
叩いて お金が出るならば
もしもお金が出た時は
その時ゃ身請けを そうれたのむ
明治初年に流行した俗謡で、メロディは「かんかんのう」。岸井明さんの伸び伸びとした歌声がのほほんと楽しい。小助の才覚に感心した大助、籠で一儲けしようと家中の鶯を放ってしまう。しかしそれは親父が残した最後の遺産と、小助は嘆く。しかし、才覚に溢れる小助が次に出したアイデアは、大道商売だった。
上野寛永寺の五重塔の前。小助と大助が「金儲けの法を伝授する」と垂れ幕を掲げて口上。壮士気取りの藤原釜足さんがおかしい。「わずか10銭で金儲け」それに釣られた客に、大介が小声で「わし達と同じことをすればいい。必ず10銭儲かる」と(笑)
戦前の上野寛永寺。冬のロケなので寒々としているが昭和12年の空気を感じることができる。次に小助が考えたのは、壮士たちが自分の意見を街頭でいくら叫んでも、庶民は振り向いてくれない、ならば「唄で伝えよう」と、演歌師になることを思いつく。
ならば、改良党総裁に談判しようと、大助、鼻息も荒く、なんのツテもないのに改良党総裁・荒川(小杉勇)の家へ乗り込む。書生に門前払いを食わされるが、そこへ帰宅した総裁の娘が、なんと鶯の籠を求めにきたハツ子だったのを幸いに、渡りをつける。いきなり総裁に「ダイナマイトドン」を知ってるか!と鼻息も荒い。ともかく自転車に乗ったハイカラさんの梅園龍子さんがとにかく可愛い。
総裁の公認を得て、小助と大助、早速、街頭に立って「書生節」のデモンストレーションを開始。
「ダイナマイトドン」 藤原釜足・岸井明
(藤原)
♪民権論者の涙の雨で 磨き上げたる 大和魂
コクリミンプクゾウシンシテ
ミンリヨクキユウヨウセ
そうすりゃ日本は万々歳
あゝ 豪気だね
(岸井)
♪悔やむまいぞや 苦は楽の種 やがて自由の花が咲く
コクリミンプクゾウシンシテ
ミンリヨクキユウヨウセ
そうすりゃ日本は楽天地
あゝ 豪気だね
と勇ましい。嘲笑した聴衆の一人に、大助「貴様、何がおかしい、真面目に聞け」と殴りかかる。おいおい。そこに通りかかった人力車に乗った粋な姐さん、柳橋の芸者・染八(竹久千恵子)が大助に微笑む。大助くんフォーリンラブの瞬間である。竹久千恵子さんは、昭和5(1930)年、18歳の時、エノケン一座「カジノ・フォーリー」に加わり、一座と共にP.C.L.映画のヒロインとして活躍した。その後、渡米して日系人記者・クラーク・河上と結婚するが日米開戦で「第一次交換船」で帰国。戦後はハワイで晩年を過ごした。その竹久千恵子さんの年増っぷりがなかなか。清純な梅園龍子さんと好対照を成している。
二人の「書生節」は好評で、次に上野寛永寺五重塔前で、小助が月琴を手に、大助が「書生節」を歌う。月琴とは、中国の弦楽器で円形の共鳴胴に、短い首で、最大4弦で、手軽な楽器として明治時代に流行。演歌師や流しが使っていた。明治時代のギターやウクレレのようなもの。小林旭さんが『生きている狼』(1964年・日活・井田探)で、月琴を弾きながら流しをしていた。
「書生節」 藤原釜足
♪書生 書生と 軽蔑するな
フランス ナポレオン 元は書生
♪書生 書生と 軽蔑するな
今の大臣 元は書生
大助「今、歌ったのは“書生節”である。文句は全部、この中に書いてある」と歌詞集を、聴衆に売り始める。そこへ、また柳橋芸者・染八が通りかかる。運命の再会である。飛ぶように売れる歌詞集。気を良くした小助。「さあ、今後は新しい唄を歌う。今から五十年ぐらい経たんと流行らん唄だから、そのつもりで長生きして、よく聞いておけ」。いよいよナンセンスの世界に突入! そこで岸井明さんが歌うは、渡辺はま子さんの「忘れちゃいやよ」(作詞・最上洋 作曲・細田義勝)!
「忘れちゃいやよ」 岸井明
♪月が鏡であったなら
恋しあなたの面影を
夜毎写してみようもの
こんな気持ちでいるあたし
忘れちゃいやよ 忘れないでね
小助「お前たちのような旧弊なものにも、この歌がわかるか? こんな歌が流行るようになったら世の中おしまいだぞ!」。ここで、当時の観客がどっと笑ったに違いない。やがて、排外主義を打ち出した改良党のメッセージを伝えるべく、銀座の街頭に立って、大助と小助が「改良節」を歌う。
「改良節」 藤原釜足・岸井明
♪野蛮の眠りの 覚めない人は
自由のラッパで 覚ましたい
開花の朝日は輝くぞ
覚ましておくれよ 長の夢
ヤツテケモツテケ
改良せえ 改良せえ
街頭に集まった人々も、一緒に歌い出す。ああ、こうして「書生節」は流行していったんだなと、映画を見ながら得心する。これが「流行歌」の元祖なのかと。しかし聴衆の一人「理屈っぽい唄なんかやめて、余興をやってくれ」。大助「ばか、この非常時に何を言う!バカめ」と一蹴する。このあたり、コメディが時流に飲み込まれて「笑えない」瞬間になる。壮士の「書生節」に対して、岸井明さんが未来の「流行歌」を余興で歌う。このバランスが面白いのに。そろそろジャズソングも聞きたいぞ! と思っていると・・・
二人の活動が、民権運動にとって重要なものとなり、小助の自宅に「改良党演歌団本部」の看板を出して、演歌師の弟子が数多く集まってくる。弟子たちが日頃の稽古の成果を見せるシーン。これが本作のハイライトとなる。余興に反対する大助に「いいじゃないか、余興で人を釣っておいて、後で貴様の唄を聞かせる」と小助。
まず、ジャズ・シンガーのリキー宮川さんが歌い出すのは、1935年のMGMミュージカル『踊るブロードウェイ』のなかでロバート・テイラーが歌った"I've Got a Feelin' You're Foolin'"! これこれ、これですよ。
"I've Got a Feelin' You're Foolin'" リキー宮川
♪ああ 可愛いエクボに 迷って
せっかく貯めた金は
いつ間にか すっちゃった
ああ バカみた〜
♪銀座の柳の 影で
ちょいと見て 好きになった
モダンな娘は 魔物だ
ああ バカみた〜
これも買って あれも買って
歩くうちに 懐は寂しく
すっからかんに なっちゃった
♪金がなくなりゃ 彼女
可愛いエクボで あばよ
わたしゃ ホンマに よう言わんわ
ああ バカみた〜
ジャズ歌手、タップダンサーとして引っ張りだこの色男・リキー宮川さんのビング・クロスビー・スタイルのフラな歌い方がたまらない。ナシオ・ハーブブラウン作曲のメロディーにぴったりあった歌詞。たまらない。三番の「わたしゃ ホンマに よう言わんわ」は、笠置シヅ子さんの「買い物ブギ」(1949年)に先駆けるごと十二年前。ジャズ・ソングに「関西弁」が乗った瞬間!である。ああ、素晴らし!
続いて、庭で掃除をしていた書生に「おい、貴様、歌ってみい」。メガネをしていないので、一瞬、誰かわからずだが、なんと「のんき節」で一世を風靡した演歌師芸人・石田一松(吉本興業)さんである。ここで本家が登場となる。石田一松さん、箒をバイオリンに見立て、柄杓を弓がわりに弾き始める。歌うは師匠・添田唖蝉坊作「ああわからない」である!
「ああわからない」 石田一松
♪あゝわからない わからない
人が 俥を引いている
馬も 俥を引いている
人だか 馬だか わからない
♪あゝわからない わからない
オギャーと この世に 産まれきて
飲んで 食って 一生 終わりでは
なんのことだか わからない
「なかなかいいことを言う」と感心する大助。石田一松さんの「のんき節」は戦後、昭和30年代、植木等さんが歌った一連の「無責任ソング」のルーツでもある。「石田一松、上手くなったぞ!」と褒める小助。ああ、自役自演なのか!
続いては、P.C.L.の歌姫・神田千鶴子さん。岸井明さんとコンビで「ほんとに困ります」(1936年)のヒットを出している。
「別れちゃいやよ」 神田千鶴子
♪青い小鳥が 呼びかけりゃ
赤い野薔薇も 答えてよ
あなたが私に ささやいた
愛の言葉が ほんとなら
別れちゃイヤなの いつまでも
♪愛しあってる 二人なら
離れられない 仲なのね
楽しい逢瀬も 星の数
ロマンチックな 恋の夢
別れちゃイヤなの いつまでも
あゝ楽しい。この三連発。音楽映画好きの伏水修監督の映画の楽しさがここでピークとなる。こうした「余興のための未来の流行歌・ジャズソング」を下劣で「嘆かわしい」大助が嘆く。そこへ保安条例で、改良党に帝都退去命令がくだり、総裁(小杉勇)初め党のメンバーが東京から三里以内からの立退を命ぜられる。しかし何故か大助と小助には、当局の命令はこない。そこで小助は、総裁の留守宅で用心棒として党員の妻たちの面倒を見ることに。
大助は、これをチャンスと柳橋の染八のところへ転がり込んで、すっかり亭主気分に。鼻の下を伸ばす。「愛国の士を匿ってくれ」を口実にしているのは、いつの世も変わらないというシーン。一方、小助はハツ子と一緒なので、幸せなのだが、女の子たちに「金仏さん」と揶揄われて、大クサリ。ここでコンビは解消して、それぞれの道を歩むことに。
ここで岸井明さんが、恋する梅園龍子さんのために、ジャズ・ソングの十八番を朗々と歌ってくれる。エノケンもレコードに吹き込んだ「想い出」である。
「想い出」 岸井明
♪君が笑顔 忘れあえず
一人わびしき 朝夕と
君が姿 清き瞳
われに与えし 恋ごころ
愛し想い 胸に秘めて
君が言葉 やさしなぐさめ
涙しつつ その日しのぐ
今ぞはかなき 想い出よ
縁側に立つ小助。歌い終わるとキャメラは、庭の手水鉢に映る綺麗な月を捉える。これが伏水修監督のリリカルなセンス! この月がオーバーラップして柳橋の染八宅の丸窓から、しんねりむっつりの大助と染八のショットになる。
音楽映画としてのピークはここまで、後半は、小助がハツ子のバイオリンを研究して、国産初のバイオリンを製作。大助は壮士を諦めて実業家として世の中を変えると発奮、小助のアイデアを頂いて「鈴木式バイオリン」を量産。演歌師となったリキー宮川&神田千鶴子さんたちの声がけで、演歌師が月琴からバイオリンに乗り換え、ビジネスは大成功。
ちなみに鈴木式バイオリンは、創業者・鈴木政吉が明治20年、舶来品の模倣をして国産初のバイオリンを製造。つまり実在の会社なのである。もちろん今でも健在である。『風流演歌隊』はフィクションながらに「鈴木バイオリン製造」誕生物語ででもあったのだ!
クライマックスは、築地ホテルでの「鈴木バイオリン商会」「大日本演歌師連盟」の大祝賀会。大助は「歌謡論」の勇ましい演説をする。
「唄は風に乗って、人の口から耳へ、耳から口へと広まりて、止まるところを知らない。而して、その歌謡・音曲がもし、人々に好んで口ずさまれるのであれば、それは必ずや、その当時の社会の風潮を、切実実に反映しているものであると思う。大衆に生活の苦悩を忘れさせしめて、大いなる悦楽を与えるのも、歌謡であり、あるいはまた、戦場にちくする兵(つわもの)に、盛んなる士気を与えるのも、音曲である。銃後の国民を駆って、正義の国民に仕立てるにも、また預かって力がある。ここにこそ、わが大日本演歌師連盟の大いなる将来の使命があると存するのである」
映画は続いて、演歌師たちがバイオリンで「敵は幾万」の大合奏、その市中大行進、大パレードとなる。撮影所の明治時代の街並みの規模の大きさに驚かされる。同じ頃、小助はまたまた発明をして、国産の軍隊用のライフルを開発。これを大助は鈴木商会の次のビジネスになることを匂わして映画は終わる。
まだ国策映画の時代ではないが、日中戦争が始まる昭和12年の空気をビビッドに反映しているのだが、こっちはもう少しジャズソングや流行歌が聞きたかったと、映画の中盤を懐かしむわけで(笑)
と言うわけで「歌謡」はプロパガンダに積極的に使われるのである。この映画が作られた昭和12年は、まだしもだが、日中戦争が泥沼化する昭和13(1938)年になると、国家がその「音曲」に対して、あれやこれやと指図をして、どんどんと世の中はおかしくなるのである。その変わり身の瞬間を『風流演歌隊』は担っているのである。なので、岸井明さんのモダンなジャズソングが好きな僕にとっては、あれれ・・・なのである(笑)