『怪談雪女郎』(1968年4月20日・大映京都)「妖怪特撮映画祭」で上映
今宵の娯楽映画研究所シアターは、「妖怪特撮映画祭」で上映の田中徳三監督『怪談雪女郎』(1968年4月20日・大映京都)。
この年の3月20日、『妖怪百物語』(安田公義)を大成功させた大映京都が、続いて製作したのが「雪女」伝説を、美しくヴィジュアル化した、日本の怪奇ファンタジーの最高峰の一本。脚本はベテラン・八尋不二。誰もが知っている「民話」が「怪談」としてカテゴライズされたのは、ラフカディオ・ハーン=小泉八雲の「怪談」によるところが大きい。
室町時代末の連歌師・宗祇法師の「宗祇諸国物語」に、越後国で宗祇が「雪女を見た」と記述。新潟県小千谷地方、長野県伊那地方、岩手県、宮城県にも「雪女」伝説がある。
映画では『怪談』(1965年・小林正樹)では岸惠子さんが演じているが、この『怪談雪女郎』の藤村志保さんは、僕はベストオブ「雪女」だと思う。子供の頃、テレビの映画劇場で繰り返し放映されており、時代劇なのに、子供にも「わかる」のが嬉しかった。というか絵本や民話で親しんできたお馴染みの物語を、ちゃんと映画にしているのが、嬉しかったのだ。
美濃と岐阜の境の山中で、仏師・茂朝(花布辰男)と弟子・与作(石濱朗)が、ようやく、国分寺の命で彫ることになっている観世音菩薩像に最適な大木を見つける。その夜、嬉しさのあまり深酒をして茂朝が眠りこくると、猛吹雪のなか、小屋に現れた雪女(藤村志保)に凍死させられてしまう。誠実な若者・与作に慈悲をかけた雪女は「他言はしない」の約束で、与作を見逃す。
という前段で「他言はしない」ルールが設定される。いわゆる「それを言っちゃおしまい」の「禁忌」である。昔話や怪談話の基本である。このバリエーションが「夕鶴」「鶴女房」の「正体を知ってはならない」でもある。
で茂朝の代わりに、観音菩薩を彫ることになった与作の前に、美しい女性・おゆき(藤村志保)が現れて、その女房となる。しかしその美しさに目をつけた地頭・惣寿(須賀不二男)は、ゆきをものにしようと、あの手この手を画策する。
怖いのは雪女じゃなくて、立場を利用してスケベを極めようとする役人の欲望。というわけで、地頭・惣寿は京都の仏師・行慶(鈴木瑞穂)を連れてきて、大僧侶・慈雲(清水将夫)に、与作と行慶を競わせようと提案、無理矢理納得させてしまう。
ゆきは、夫を愛し、子供を慈しむ、良き妻であり母となる。ああ、このまま幸せが続けばと、観ているこちらは心の底から願うばかり。
昭和43年から44(1968)年にかけて、大映京都は「妖怪三部作」だけでなく、『牡丹灯籠』(1968年6月15日・山本薩夫)、『四谷怪談 お岩の亡霊』(1969年6月28日・森一生)、『秘録怪猫伝』(1969年12月20日・田中徳三)と、怪談映画の傑作・佳作を次々と発表する。いずれも良作揃いだが、この『怪談雪女郎』は、そのなかで、少しテイストが異なる。激辛カレーというより、甘口でマイルドな味わいなのである。
とにかく、おゆきが健気で愛おしく感じる。息子・太郎が、わらべ歌(結構怖い)を知らなくて、友達に仲間外れにされると、「お母ちゃんが教えてあげる」と口伝えで教える。もちろんメロディーは伊福部昭先生!
おゆきの肉体だけが目的の地頭・惣寿に「金三枚を持ってこい、さもないと与作はひっ捉える」と無理難題を申し付けられ、必死にお金を作るための努力をしたり。本当に「あやかし」でなければ、最高の女房なのに! いや「あやかし」でもいいじゃないか! と思いつつ、クライマックスへと展開していく。
禍々しさよりも、人を愛することの美しさ。夫の仏師としての信念を貫かせて上げようとする、おゆきは、本当に美しい。そして色々あってのラスト。藤村志保さんのフィルムキャリアのなかで、最も素晴らしいモーメント! 美しくも切ない。子を思い、夫を愛する雪女の哀しみの表情。伊福部昭さんの音楽が、胸に迫る。
太郎の「おかあちゃ〜ん」という声に、小学生の僕は、ブラウン管の前で胸が締め付けられた。とにかく「ああ、いい映画だなぁ」とお気に入りの一作となった。
スクリーンで見てこそ、この美しさが最高に味わえると思う。この夏「妖怪特撮映画祭」で上映!