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 鈴木清順のポップでキッチュな仁侠映画『関東無宿』は、映画的技巧にあふれた楽しい作品だ。オープニング、松原智恵子・中原早苗・進千賀子の女学生トリオのアップの会話。松原の背景は電車、中原は駅の昇降客、進のバックには自動車と、その背景が目まぐるしく動いている。「侠客」についての無邪気な会話、喧騒、舞う映画のチラシ。やくざ映画『利根の侠客』を上映中の映画館から流れる浪曲。そこへ歩いてくる着流しの主人公・鶴田光雄=小林旭。進は驚きながら「ハンサムね」、好奇心おう盛の中原は「イカスじゃない!」と憧れる。快調なすべり出し。観客の日常から、伊豆組組長の娘・松原智恵子の日常である「侠客」の世界への巧みなスイッチング。

 『関東無宿』が作られたのは昭和39(1964)年。東映が前年の3月に公開した『人生劇場 飛車角』(1963年・沢島忠)を機に仁侠映画がブームとなり、日活も8月には小林旭の『関東遊侠伝』(1963年・松尾昭典)を公開。『関東無宿』の原作は平林たい子の「地底の歌」。日活は昭和31年に名和宏=鶴田光雄(本作では小林旭)、石原裕次郎=ダイヤモンドの冬(平田大三郎)、二本柳寛=伊豆荘太(殿山泰司)のキャスト、野口博志監督で映画化。本作はリメイクとなるが、シナリオは第一作と同じ八木保太郎。プロットはほぼ同じながら、作品の印象は全く異なる。それが鈴木清順の味でもある。

 侠客としてのこだわりを持つ鶴田。代議士から土建仕事を請け負うと嬉々としている組長・伊豆に反発しながら、鶴田はイカサマ賭博師の辰子=伊藤弘子に惚れてしまう。辰子はライバル吉田組のダイヤモンドの冬の弟で、さらには伝説の賭博師・おかる八=伊藤雄之助の妻でもあるのだ。仁侠道となさぬ仲の二人。ウエットなドラマなのに、鈴木清順のポップな演出。舞台のようにロングショットを多用した撮影。リズミカルなカッティングは、主人公への感情移入を断絶させ、客観的な視点を与えてくれる。

 ダイヤモンドの冬の刺青彫を見学する三人の女学生。あまりの痛さに悲鳴を上げる冬。ショックな松原と進、しかし中原は眼を見開いて喜んでいる。次のショット、手をつなぎながらまるで青春映画のように屋外を走る松原と進。再び彫師の家。信斤三の腕文と、冬、そして中原の花子のスリーショットがまるで舞台の芝居のように描かれる。さらに次のショットでは鉄=野呂圭介が浪曲をひとくさり唄いながら品川の街を歩いている。刺青を入れるという行為をアナクロなものと捉える視点。昭和39年の現代でありながら鶴田が着流しで歩く違和感。ドライな現代っ娘の花子が鉄の毒牙にかかり、さらには別の男に花街に売り飛ばされるサイドストーリーを絡めながら、鶴田の辰子への慕情、落ち目になっていく伊豆組と新しい時代への違和感、そして伝説ともなったクライマックスのアクションへと進んでいく。

 四年前、辰子と出会った信州の夜、辰子のイカサマが発覚し、鶴田の頬の傷が出来る事件の回想シーン。鶴田と鉄が消息不明の花子と探しに来た旅館の部屋で電灯が不安定に揺れるショット。シネスコ画面一杯に独特の空間を創出している。

 その独特の空間は、クライマックス、ドスを呑み込んだ鶴田が海べりをまるで舞台の花道の様に歩くロケ・ショット、賭場での壮絶なエネルギーの爆発に向けて、そのキッチュさがいよいよ増してくる。
 「どうせ男の行く道は、赤き着物か、白き着物か。」鶴田によって繰り返されるこのフレーズ。覚悟を決めた鶴田が、初めて全身の刺青を見せつつドスを抜き、相手を倒す。その瞬間、部屋の障子が一斉に倒れ、背景は真っ赤になる。部屋の電灯は先程の旅館に対応するかのように揺れている。

 鶴田の心情を代弁する様式美。鶴田が再び吉田一家に向かうショットもまた舞台的で雪が降っている。

 日活の仁侠映画は、他の日活アクション同様「個人」のドラマである。東映仁侠映画の主人公が「組織」のため「義理人情」のために殴り込みに赴くのに対して、日活仁侠映画はあくまでも「個人」のアイデンティティを回復させるための殴り込みなのだ。吉田大竜=安部徹を前に鶴田が言う「人を撃ったり斬ったりするってのは、何かの弾みでもなけりゃ出来ない」という殺人の動機と「本当に斬りたい奴は他にいるけど、そいつが滅法運が強くて、あきらめるよりしょうがない」という本音。鶴田が賭場で斬った男は、トラブルを興した単なるテキ屋に過ぎず、吉田には本音を告げることと、親分や組織への義理を果たすことしかしない。その空しさ。花子が再び現れる意外かつアロニカルなエピローグも含めて、清順世界が堪能出来る魅惑的な一本である。

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