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クレイジーキャッツの音楽史 第2回 戦後ジャズ・ブームと7人の猫たち

イラスト・近藤こうじ

クレイジーキャッツの音楽史 第2回 戦後ジャズ・ブームと7人の猫たち講師・佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

NHK文化センター「クレイジーキャッツの音楽史」第2回(5月6日(金)19:00~20:30)「戦後ジャズ・ブームと7人の猫たち」での講義内容を再録(放送ではカットされている部分もそのままテキスト化してます)。

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●戦後ジャズブームと7人の猫たち

ハナ肇とクレイジーキャッツのメンバー、ハナ肇、植木等、谷啓、犬塚弘、石橋エータロー、安田伸、桜井センリは、ジャズミュージシャンでもあります。昭和20年代、進駐軍がもたらしたジャズ・ブームのなか、10代、20代の彼らは、ジャズメンとしてのキャリアをスタートさせました。今夜は、クレイジー誕生前夜の彼らの出会い、そしてクレイジーキャッツとジャズについてお話をしてまいります。

クレイジーキャッツのサウンド

*ハナ肇とクレイジーキャッツ、植木等は、昭和30年代から40年代にかけて、ビッグヒットを次々と放った。
「スーダラ節」=節 「バカは死んでも直らない」=音頭 「ホンダラ行進曲」=行進曲
*いずれも日本人の好きなジャンルだが、作曲の萩原哲晶も、クレイジーもジャズ畑の出身。
*洋楽のジャズのイデオムと、日本の「音頭」「節」そして、彼らの少年時代が親しんだ「行進曲」の融合。
*高度成長下のニッポンの時代の気分にピッタリ。

M1 ゴマスリ行進曲 作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 1965.4.5

青島さんの「ゴマスリ」思想は、『ニッポン無責任野郎』(1962年)「♪ゴマスリ音頭」を習作するなら、こちらはさらにそれをパワーアップした完成形です。しかも萩原哲晶さんのアイデアで「行進曲化」したのです。
 植木さんの「さぁ、みんな揃って楽しく元気にゴマをすりましょう!」の掛け声は、「ラジオ体操」よろしく国民に「ゴマスリ」を奨励する。植木の掛け声には、問答無用の迫力があります。「ゴマスリ」は思想ではなく、出世のための「行為」なのだという開き直りが、この歌を突き抜けたものにしています。出世のためなら「ゴマスリ」を厭わないサラリーマンが、ついにはスポーツ感覚で「ゴマスリ」をしましょうと、いわば「ハウトゥもの」になっているのは、高度成長という時代の象徴ともとれます。
 とにかく萩原のアレンジは秀逸。「ハァー エライヤッチャ おだてろ ゴマすってのせろい」「阿波踊り」感覚の楽しさ、そして間奏の口笛が聴くものを幸福感に包んでくれるのです。

ジャズブームと7人の猫たち

*1945(昭和20年)8月15日。長く辛かった戦争が終わった。
*占領下の日本では、北海道から九州まで進駐軍の基地があった。そこには兵隊のためのクラブがあった。
*加えて、リゾート地のホテルや都市の大劇場も接収。兵隊オンリーの劇場やクラブがあった。
*ハナ肇とクレイジー・キャッツのメンバーは、それぞれ昭和20年代、ジャズマンとしてステージに立つことに。

植木等の場合

*敗戦の時、東洋大学2年生。「援農学徒」として北海道の酪農家に派遣されていた。
*玉音放送を聞いて「これで戦争はおしまいか」「なら温泉でも行くか」と登別温泉へ。
*そこで憧れの歌手・ディック・ミネに「ショーを見にこないか?」と声をかけられて人生が大きく変わることに。

ハナ肇の場合

*敗戦の時、15歳。稼業の水道工事の請負業を継ぐつもりで工学院の土木課で学んでいたが、空襲で学校が焼けてしまった。
*食べるためにヤミ屋の手伝いを皮切りに、DDT散布のバイト、米軍のジープ運転手などをして働く。
*派手な背広で街を闊歩するバンドマンの友人をみて、ジャズマンに憧れていた。

植木等とハナ肇、運命の出会い

*1947(昭和22)年1月、植木等が「刀根勝美とブルームード・セクション」のバンドボーイ兼、見習い歌手となる。
*学生服の植木に、いきなり「おいセイガク、ちょっと来い!」「僕はバンドボーイとしてつとまりますかね?」「俺の言うこと聞いてりゃ問題ない」
*植木等19歳、ハナ肇16歳の出会いだった。

植木等、ギタリストに

*1947(昭和22)年11月、植木等は「刀根勝美とブルームードセクション」の歌手として、NHKラジオ「お昼の音楽」に出演。
*しかしその後、歌手としての仕事もなく、すでに結婚していた植木は、長男が生まれることもあり「ならばギターでもするか」とギタリストに。
*知り合いから八千円のギターを月賦で譲受け、懸命に練習を重ねた。
*ジョージ・シアリング・カルテットのチャック・ウェインの演奏に多大な影響を受けた。

萩原哲晶とデューク・オクテット

*1950(昭和25)年、クラリネット奏者の萩原哲晶がデューク・オクテットを結成。
*野々山定夫(ハナ肇)がドラマーとして参加。
*このバンドがギタリストを探している時に植木が参加。そこでハナ肇と4年ぶりに再会。
*のちに「スーダラ節」を作曲する萩原、植木、ハナがここで一緒になる。

M2 銀座イエスタデイ 作詞・伊藤アキラ 作曲・編曲・宮川泰 1991.5.25

ディック・ミネに憧れ、クルーナー歌手を目指した植木が、ジャズ・ブームの「あの頃」に思いを馳せたノスタルジックなジャズ・ソング。
 ゴージャスなビッグバンドアレンジ。銀座みゆき通り、マンボズボン、バンドマン…。ジャズ・ブームの昭和20年代を駆け抜けた、植木、そして萩原哲晶、宮川泰、渡辺晋たちの青春時代の空気を再現。

石橋エータローの場合

*1945(昭和20)年。東洋音楽学校(東京音楽大学)、ピアノ科でクラシック音楽を学ぶ。卒業後、ハニージョーカーズのピアニストに。ジャズを演奏したことがなかった。
*三沢基地の黒人兵宿舎に下宿。英語とジャズを皮膚感覚で身につけた。
*ジョージ石橋としてコンボ「ジョージズ・クインテット」を結成。「石橋瑛市とザ・ファイブ」として横浜で伝説のピアニストとなる。

犬塚弘の場合

*1949(昭和24)年、IBM入社するもアメリカ人上司と大喧嘩。すぐに退社。
*1951(昭和26)年、兄のハワイアンバンドでウッドベースを担当。理由は「背が高くてサマになるから」
*真面目人間の犬塚は、クラシックの専門家に師事してコントラバスをマスター。
*歌手・後藤芳子の「エマノン」「背の高いベースマン」はたちまち評判となる。

谷啓の場合

*逗子開成中学の「振舞隊(ブラスバンド)で軍歌ばかり演奏していた谷啓(渡部泰雄)。進駐軍放送WVTRで「センチメンタル・ジャーニー」(ドリスデイ、レス・ブラウン楽団)「これがジャズなのか!」と衝撃を受け、ジャズマンを目指す。
*音楽映画のビッグバンド演奏に憧れて、中央大学で音楽研究会「スイング・クリスタル」を結成。
*プロの石橋エータローに声をかけて、学生バンド「リズム・キャンパース」を結成。

谷啓、ジャズマンとなる。

 逗子開成高校時代から、キャバレーでバンドマンのアルバイトをしていた。逗子開成高校卒業後、中央大学経済学部経済学科に進学。音楽研究会に所属し、バンドを組んでキャバレーや米軍向けに演奏していた。
 その時、横浜で伝説のピアニストとなっていた石橋エータローを招いてバンドを結成。
 中大在学中に、耳の肥えた米軍将校相手に培われた確かな腕前とコミカルな演奏が原信夫に注目され、トロンボーン奏者としてシャープス&フラッツに参加。

昭和27年 渡部泰雄
原信夫とシャープス&フラッツに入団

 その時、渡部泰雄は21歳、中央大学2年生。トロンボーン奏者として「原信夫とシャープス&フラッツ」にスカウトされました。
 ベビーフェイスの泰雄は、メンバーから「学生さん」と呼ばれていました。普段から恥ずかしがり屋で、演奏時に下を向いていることも。目立ちたいけどシャイ、そのキャラクターは次第にメンバーに愛されるようになりました。

渡部泰雄 谷啓となる

 トロンボーン奏者としてシャープス&フラッツに参加。本格的な演奏のほかに、トロンボーンのスライドを足で動かして吹くなどのコミカルな演奏も行う。「スイングジャーナル」誌上でトロンボーン奏者として上位にランキングされるようになる。
 芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で『谷敬』だったが、ファンから「谷敬という字はいけません。なぜかというと、谷底でいつも敬っているんじゃ、ずっと底にいることになるから」という指摘を受け、『谷をひらく』という意味の『谷啓』と改名した。

M3 12番街のラグ Twelfth Street Rag 作曲:ユーディ・L・ボウマン 演奏:谷啓(ライブ録音)

安田伸の場合

*1950(昭和26)年、東京芸大器楽科に入学。進駐軍クラブでサックスを吹いて学費の足しにしていた。
*本格的なクラシック音楽を学んだ後、1953(昭和28)年、石橋瑛市とザ・ファイブに入った。
*ザ・ファイブの演奏に、客として通い詰めていたのが、関東学院大学に入学したばかりの谷啓だった。

桜井センリの場合

*ロンドン生まれ。3歳で帰国。幼名は桜井ヘンリー。幼い頃からクラシックピアノを学ぶ。
*早稲田大学経済学部在学中「金になるから」とサンバレー・スイング・ジャズ・バンドのピアニストに。
*昭和20年代後半は、トリオを結成。多忠修とゲイ・スターズで一緒だったドラマーのフランキー堺からの要請で「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」へ。

フランキー堺とシティスリッカーズ

*与田輝雄とシックス・レモンズの人気ドラマー・フランキー堺、WVTRで聴きハリウッド映画で観た「スパイクジョーンズとシティ・スリッカーズ」の日本版を結成。
*そこで「原信夫とシャープス&フラッツ」で、足でトロンボーンのスライディングをさせるなど、コミカルな演奏をしていた谷啓に声をかける。
*1954(昭和29)年2月、総勢17名のビッグバンドが編成された。

クレイジーのメンバーが参加

*ピアニストには、フランキーとは「多忠修とゲイ・スターズ」の仲間・桜井千里に声をかけた。
*結成して1ヶ月後、植木等は「フランキーのバンドが新しいギターを探しているんだよ」とハナ肇から聞かされ、押し切られる形でシティ・スリッカーズに参加。
*サックスには、ハナ肇とキューバンキャッツにも参加する稲垣次郎も在籍。
*ここで植木等、谷啓、桜井センリが顔を合わせる事になる。

M4 ウイリアム・テル序曲 編曲・岩井直溥 フランキー堺とシティ・スリッカーズ

フランキー堺は、「スパイク・ジョーンズとシティスリッカーズ」「冗談音楽」は、笑いの持つ知的な部分と、音楽の感性が融合していることに、限りない魅力を感じたのだ。スパイク・ジョーンズは、1940年代にビッグバンドを立ち上げ、映画やラジオで活躍していた。慰問映画”Thank You Lucky Stars”(1943年・未)”ハリウッド・アルバム”などに出演。大掛かりな演奏シーンは、バラエティに富んだ慰問映画にとって、格好のアトラクションとなった。

犬塚弘とハナ肇

*1952(昭和27)年、萩原哲晶とデューク・セプテット結成。ベースで弓を弾く背の高い男として注目を集めていた犬塚弘が参加。
*一時期、秋吉敏子のトリオに参加していたこともある犬塚弘。
*浜口庫之助とアフロクバーノのジュニア・バンドをクビになったハナ肇が、楽屋に出入りしていた。
*ハナは「ワンちゃん、バンド作らねえか」と犬塚に声をかけた。

ハナ肇とクレイジーキャッツ

*1955(昭和30)年4月1日。ハナ肇とキューバンキャッツ結成。
*1956(昭和31)年2月。谷啓がシティ・スリッカーズから加入。
*同年3月。石橋エータローが、世良譲の紹介で加入。
*1957(昭和32)年3月。植木等がシティ・スリッカーズから加入。
*同年9月。安田伸が、石橋エータローの紹介で加入。
*1960(昭和35)年7月。桜井センリが、病気休養の石橋エータローのピンチヒッターで加入。

M5 Crazy Beats 構成・編曲:谷啓 
ハナ肇とクレイジーキャッツ 『竜巻小僧』1960.11.11/日活・西河克己

映画の音楽コントへの挑戦

「映画でないと出来ない、コミカルな演奏をして欲しい」と製作陣からの要望。
*谷啓は参加以来、アイデアマンとして、さまざまなギャグや音楽コントを作ってきた。
*メンバーに内緒で、音楽専門学校の通信教育を受けて、3年越しで編曲をマスター。

谷啓は語る

 もうね、楽しくて、楽しくて。ハリウッド映画で見てきたような”映画の嘘”を自分で考えて、それをスタッフが微に入り細に入り再現してくれるんだから。
 のちの『香港クレージー作戦』(1963年・東宝)の音楽コントへと発展。
 TBSテレビ「植木等ショー」「われもし指揮者なりせば」(1967年)「ラプソディー・イン・ブルー」に結実。

クレイジーキャッツのジャズ演奏

ジャズマンであるクレイジーキャッツは、昭和34(1959)年、「おとなの漫画」(CX)出演を機に、コミックグループへ。ャズ喫茶やステージでの演奏を続けながら、次第にテレビの人気者に。「スーダラ節」(1961年)のヒットでクレイジーの音楽に、コミックソングが加わる。それゆえジャズ演奏はほとんど残っていない。

M6  クレイジーのクリスマス〜ジングルベル 演奏・ハナ肇とクレイジーキャッツ 唄・植木等

ドラム・ハナ肇
ギター・植木等
トロンボーン・谷啓
クラリネット、サックス・安田伸
ベース・犬塚弘
ピアノ・石橋エータロー&桜井センリ

ジャズマンとしてのクレイジー

*1975(昭和50)年。谷啓は「音楽で面白いことをやろう」「谷啓とザ・スーパーマーケット」を結成。
*1980年代に入って安田伸はジャズバンド「シーラカンス」を結成。
*1985(昭和60)年。ハナ肇は、もう一度ジャズマンに戻ろうと「ハナ肇とオーバーザレインボー」を結成。谷啓も参加。

市川準監督『会社物語』

*1988(昭和63)年。市川準監督『会社物語』で、久しぶりにクレイジーキャッツが顔を揃えた。
*戦後ジャズ世代の男たちが、定年間際のサラリーマンとなり、再び楽器を手にして送別演奏会にのぞむ。
「スターダスト」「虹の彼方に」「メモリーズ・オブ・ユー」「黒い瞳」などのジャズスタンダードを演奏。

クレイジーキャッツ幻のシングル

*1968(昭和43)年4月23日。クレイジーのメンバー全員で新曲の録音が行われた。
*前年の『花は花でも何の花』(1967年6月)以来の新曲だった。「笑って幸せになろう」をコンセプトに平尾昌晃が作曲、山口あかりが作詞。
*しかし4月27日封切りの大作『クレージーメキシコ大作戦』が期待通りのヒットにならずに… お蔵入りとなった。

M7  笑って笑って幸せに 作詞:山口あかり 作曲:平尾昌晃 
ハナ肇とクレイジーキャッツ

「♪花は花でも何の花」(1967年6月)以来、久々のクレイジー全員で歌う新曲が企画された。作詞は新進の山口あかり、作曲は平尾昌晃。「笑って幸せになろう」をコンセプトに作られた。
  レコーディングは、昭和43年4月23日。東芝のスタジオに7人が勢ぞろいして吹き込まれた。
   桜井、谷、犬塚、石橋、ハナ、安田、植木の順番で、ソロパートが展開する。聴いていて幸福になれる傑作ソングに仕上がった。
 しかし、正月映画『日本一の男の中の男』の主題歌「♪そうだそうですその通り」「♪なせばなる」同様、お蔵入りのまま未発売となってしまった。『クレージーメキシコ大作戦』が期待通りのヒットをしなかったこともあり、そろそろクレイジーは・・・というムードがあったのかもしれない。
 この曲は、「植木等ショー」で植木が森光子、坂本九とともに歌ったことがある。結局、昭和44(1969)年のお正月映画『クレージーのぶちゃむくれ大発見』の主題歌として、ラストに歌われることとなる。

第1回 初心者のためのクレイジーキャッツ入門 はこちらから!

第3回 スーダラ節の衝撃 はこちらから!

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