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『赤い波止場』(1958年・日活・舛田利雄)

颯爽裕次郎!抜く手も見せぬ左射ち!恋を捨て恋に生きる!
夕映えの海に去り行く口笛の男!!

製作=日活/東京地区封切 1958.09.23/10巻 2,725m 99分/モノクロ/日活スコープ/併映:東京は恋人・昭和33年度大相撲秋場所

 石原裕次郎は、戦後の日本映画最大のスターの一人。デビュー以来演じて来たキャラクターは、裕次郎の終生のイメージでもある“太陽”に象徴されるように陽性のヒーローでもあった。

  同時に『俺は待ってるぜ』(1957年・蔵原惟繕)や『錆びたナイフ』(1958年・舛田利雄)での裕次郎はいずれも暗い過去を持つ孤高のヒーロー。これらは「太陽」に対する“影”の部分でもある。その裕次郎が1958年の正月映画『嵐を呼ぶ男』(1957年・井上梅次)で興行的人気を証明した瞬間、戦後の日活アクション時代が本格的に始動した。

 その井上監督の助監督として『勝利者』『鷲と鷹』(1957年)では共同脚本を手がけた舛田監督の『錆びたナイフ』に続く裕次郎映画が『赤い波止場』。その年にデビューしたばかりの舛田を抜擢するというのが、日活映画の若さである。

 裕次郎映画を任された舛田が、脚本家の池田一朗と共に、映画製作の実質的な責任者だった江守清樹郎専務に提出したプロットは、当初ゲイリー・クーパーが天才肌の建築家を演じた『摩天楼』(1949年)のような理想主義の若者をイメージ。度重なる核実験で甚大な影響を受けた農作物などへの放射能を除去しようと研究を重ねる情熱家を主人公にしたものだった。研究者の挫折と復活を描いた理想主義の具現を目指したドラマだったという。

 ところが会社はそのプロットに対し「小学二年生が五年生の作文を書くな」と拒否。公開日も決まったまま、舛田と池田が急遽作り上げたのが『赤い波止場』だという。当初、会社がつけたタイトルは『口笛の聞こえる港町』だった。

 モチーフは舛田が学生時代に心酔したというジュリアン・デュビビエ監督、ジャン・ギャバン主演のフランス映画『望郷』(1937年)をベースに、池田一朗と共にシナリオを執筆。東京で殺しの仕事をして、身代わりを出頭させ、神戸に潜伏している通称レフトの二郎は、それまでの裕次郎映画にはなかった職業的殺し屋のアウトローという設定。真っ白いスーツにサングラスで登場する裕次郎のカッコ良さ。

 神戸の丘にある洋館で、情婦マミー(中原早苗)と過ごしながら、二郎は海外に脱出して、それまでをすべてリセットして全く違う人生を歩むことを願っている。気怠い二人の朝。現実の幸せを求めるマミーに「飽きた」という言葉を放つ二郎。何もかも「飽きた」主人公の思いは、舛田監督の思いでもあり、その「脱出へのあこがれ」が、清純な北原三枝のヒロイン圭子への思いに昇華されてゆくドラマのダイナミズム。翻案とはいえ、これは日活アクションの主人公によって繰り返されるモチーフでもある。

 東京帰りの圭子と、二郎が交す新宿の喫茶店ついての会話。見知らぬ異郷で過ごす主人公の「望郷」への思い。その二郎に立ちふさがる神戸市警の野呂刑事を演じた名バイプレイヤー大坂志郎のうまさ。こうした脇役たちがディティール豊かにキャラクターを作り上げていくのが、日活映画の楽しさでもある。

 名手・姫田真佐久のキャメラによるシャープなモノクロ映像が、二郎の純白のスーツをより一層際立たせる。祭りの竜の舞いに紛れて、野呂刑事たちを捲いて圭子と二人で夜の街を歩く二郎。短い会話に二人の気持ちが紡ぎ出され、続く刺客による二郎襲撃。傷ついた二郎を手当しようとする圭子の前に現われるマミー。短いシークエンスだが、主人公たちの置かれた状況と心理を巧みに描いて、舛田監督の的確な演出が冴え渡る。

 また、岡田真澄の子分・タア坊とその彼女・美津子(清水マリ子/後の清水まゆみ)のサイド・エピソードもいい。不気味な殺し屋・土田(土方弘)に射すくめられる美津子。タア坊と土田の対決を用水路のフェンス越しに捉えたマスターショット。舛田監督のお気に入りは、日活撮影所のプールで撮影したこの対決シーンだという。

 潜伏している二郎の焦燥感。圭子への思い。「ああ、行きてぇな。あの海の向こうに」。物心ついた時から浮浪児だった二郎が、今の暮らしに「飽きた」という六甲山頂のシーン。「不幸? そんなものくそ食らえだ!」と笑い飛ばす二郎のニヒリズム。「そんなことはない」と否定するヒロインの慈愛。溢れ出すダイヤローグは、日活映画の魅力を支えた重要な要素。

 そしてクライマックス。二谷英明の兄貴分との対決シーンで交される会話。慕ってきた兄貴分に裏切られたと悟る二郎が、殴り合いながら叫ぶ「俺は悲しいんだ。貴様みたいな男を兄貴分と慕って。俺はこんなバカな自分が悲しいんだ」という台詞の哀切。

 当時、映倫が悪役である二郎をカッコ良く描きすぎとクレームがついた程、左打ちの二郎の裕次郎は素晴らしい。看板スターが最後に逮捕されてしまうという展開にびっくりした上層部に、舛田監督が呼び出されたというエピソードもある。裕次郎映画を25本も手がけることになる舛田監督は、「赤い波止場」で裕次郎に手錠をかけさせ、『太陽への脱出』(1964年)ではついにスクリーンで死ぬことのなかった裕次郎に劇的な死をもたらした。その反骨精神こそ、舛田映画の真骨頂であり、裕次郎映画を今なお輝かせているエネルギーでもある。

 昭和42(1967)年、舛田は渡哲也で『赤い波止場』を『紅の流れ星』としてリメイク。渡版は同じフランス映画でもヌーベルバーグの『勝手にしやがれ』(1959年・ジャン・リュック・ゴダール)を思わせる快作だった。

日活公式サイト



web京都電影電視公司「華麗なる日活映画の世界」

石原裕次郎 昭和太陽伝 (叢書・20世紀の芸術と文学) 




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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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