『捜索者』(1956年・ワーナー・ジョン・フォード)
昨夜の娯楽映画研究所シアターは、二十数年ぶり、ジョン・フォード監督&ジョン・ウェイン主演『捜索者』(1956年・ワーナー)。
数あるフォード&ウェインのコンビ作でも、ハリウッド西部劇でも(結果的に)異色作となっている。南北戦争終結、3年後のテキサス。数年ぶりに故郷に戻ってきたイーサン・エドワーズ(ウェイン)が、先住民のコマンチ族に、弟一家を虐殺され9歳の姪・デビー(ラナ・ウッド)が攫われてしまう。その姪を救出するために、インディアンと白人の混血児・マーティン・ポリー(ジェフリー・ハンター)とともに、長い旅に出る。
オリジナルタイトル”The Searchers”の通り、6年の歳月をかけて、イーサンとマーティンは、コマンチ族の戦闘隊長・スカー(ヘンリー・ブランドン)を、執念で追いかけていく。話はシンプルだが、ウェインのキャラクターが「インディアンに対する憎悪」に溢れていて、その執拗と執念は、いつものウェインの心優しき西部の男とは違う。バランス感覚を崩してしまうほど「憎悪」の男である。
もちろん、モニュメントバレーの美しい光景や、メキシコ国境の川での銃撃戦、雪が一面に多い、凍りついた池を渡シーンなど、ロケーション、セットともに西部の風情が描かれている。
ジェフリー・ハンター演じるマーティンは、妹のように可愛がっていたデビー(ラナ・ウッド)を助け出したい一念で、恋人・ローリー(ヴェラ・マイルズ)を待たせ続ける。途中、マーティンがアクシデントでコマンチ族の女を女房にして、そのことを手紙で告げられたローリーが激怒するシーンなど、ユーモラスな場面も随所にある。
しかし、先住民に誘拐され、その世界で生きてきた少女は、もはやアメリカ人ではない。敵だと、イーサンは、彼女を殺そうと考えている。当時の感覚ではそうなのだろうが、そこに猛烈な違和感を感じ、今までの西部劇では描かれてなかった「現実」がヘビーに迫ってくる。
やがて、美しい女性に成長したデビー(ナタリー・ウッド)が、二人の前に現れる。彼女に銃を向けるイーサン、必死で止めようとするマーティン。このクライマックス、昔、小学生の時に、テレビで観た時にはかなりキツかった。
もちろんジョン・フォードとしては、この後、ハッピーエンドを用意しているのだが、マーティンを待ちきれずローリーが、鼻持ちならないチャーリー・マッコリー(ケン・カーティス)と結婚式の当日。イーサンとマーティンが帰ってきて、花婿VSマーティンの殴り合いになる。ここが、いつものフォード・ユーモアなのだけど・・・
いよいよ、クレイトン牧師(ウォード・ボンド)とイーサンたちが騎兵隊の要請で、コマンチ族征伐に向かうクライマックス。この戦いのシーンの演出が素晴らしい。まさに反撃に次ぐ反撃。デビーも見つけ次第殺す、という隊の方針に対して反発するイーサンが単独でデビー救出を志願。それに対して「勝手にするがいい」と認めるウェイン。ああ、ここでヒーローが帰ってきた!という気がする。
そして大団円。ハッピーエンドにはホッとした。見返すと、この『捜索者』かなりの傑作であることに、改めて気づいた。この映画のウェインの狂気は、『タクシー・ドライバー』(1976年)のトラビス(ロバート・デニーロ)と同じだったんだ!と。
ウィントン・C・ホックのキャメラは素晴らしく、マックス・スタイナーの音楽は「西部劇を見ている安堵感」をもたらしてくれる。
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