『今日のいのち』(1957年・田坂具隆)
日活が創業したのは大正元年(1912)のこと。戦前は、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、阪東妻三郎ら剣戟スターが活躍し、時代劇黄金時代を築いていた。しかし、 昭和17(1942)年、戦時体制下の企業統合によって、製作部門が大日本映画製作株式会社)に吸収されてしまい、実質的に日活映画はなくなってしまった。もちろん、映画興行、配給業務は続けていたものの、戦後日活が再開したのは、昭和29(1954)年になってから。調布に新建設された日活撮影所は、ハリウッドのMGMスタジオをしのぐ規模で、東洋一の名に相応しい設備を整えていた。製作再開間もなくのキャッチコピーは「信用ある日活映画」。文芸作品や、若手監督、そして独自のスターによる映画作りにより、昭和30年代の戦後日本映画黄金時代を支えていくことになる。
製作再開作品は、昭和29(1954)年6月27日封切りの『かくて夢あり』(千葉泰樹)と『国定忠治』(滝沢英輔)だった。それから三年、日活では若手監督が続々デビューを果たし、戦後最大のスター石原裕次郎を中心に、専属俳優の顔ぶれも充実していた。この『今日のいのち』の冒頭にクレジットされている<日活製作再開三周年記念映画>には、そうした背景がある。
<美しい想いを胸に秘めて、汚濁の世相に強く生き抜く女心を描く、由起しげ子原作“今日のいのち”(読売新聞連載小説)の映画化で日活製作再開三周年記念映画として銀幕に贈るものである。>とは、プレスシートの冒頭の文章。この作品がいかに鳴り物入りで作られたかが判る。
さて、この記念作のメガホンを撮ったのは、石坂洋次郎の文芸作『乳母車』(1956年)で、“太陽族”のイメージが強かった裕次郎の“好青年ぶり”を見事に引き出した、巨匠・田坂具隆監督。大正時代から日活で助監督をつとめ、昭和2(1926)年、日活大将軍(京都の撮影所)の『かぼちゃ騒動記』でデビューを果たした田坂は、『五人の斥候兵』(1938年・日活多摩川)や『路傍の石』(1938年・同)、『土と兵隊』(1939年・同)などエポックメイキングな作品で、戦前の日活作品を支えた。
製作再開後は、年一作のペースで、良心的な文芸作を発表していた。左幸子がフレッシュにお目見えした由起しげ子原作の『女中っ子』(1955年)、裕次郎の『乳母車』のように、文芸大作であると同時に、新人俳優をメインに、青春の痛みや苦しみ、屈託を持ちながらもポジティブに生きる姿を描いてきた。
本作では、『狂った果実』(1956年)で、裕次郎の弟役でナイーブな感性を見事に演じた津川雅彦をフィーチャー。日活映画の最高のヒロインの一人である北原三枝を主演に、出生に影を持つ若い男女の恋と青春、そして厳しい現実を描いている。何より豪華なのは、タイトルバックにズラリと並んだキャスト陣だろう。北原三枝、津川雅彦、安井昌二、浅丘ルリ子、石原裕次郎といった若手、森雅之、山根寿子、金子信雄、織田政雄、高野由美といったベテラン陣が織りなすドラマをじっくりと堪能して欲しい。
この作品での裕次郎は、脇役ながら若手の有能な建築家・岩本岩次郎。物語の後半に重要な役として登場する。裕次郎と北原三枝の黄金コンビのツーショットもタップリある。これは、当時の裕次郎ファンへの田坂監督のサービスであり、興行的な要請もあってのことだろう。さらに、ほんの一瞬であるが、裕次郎とともに日活ダイヤモンドラインのスターとして、日活アクション黄金時代を牽引していく小林旭が、津川雅彦の学友・槙一郎 として出演している。京都駅で北原三枝を乗せるため津川雅彦に自動車を貸す学生の役。
東京にほど近い、茨城県の南部にある取手で医者の娘として育てられてきた南方理子(北原三枝)は、医学部で学ぶインターン。戦災で消失した青山にあった父の病院の再建を夢見ている。理子は、幼なじみの京大生・鳥羽岳二(津川雅彦)の兄・吉成朝巳(安井昌二)の求婚を受け入れようするが、理子に想いを寄せていた岳二は、彼女に反発する。
理子も岳二も、いずれも出生にまつわる哀しい過去を持っている。そんな二人は、周囲の反対を押し切って、将来を約束する。しかし、理子の美しさゆえに、手を差し伸べる花屋京四郎(森雅之)や、精神病院を経営者・滝川晋平(金子信雄)たちや、家柄を気にする岳二の養母・鳥羽紗智子(山根寿子)たちの存在が、二人の将来に立ちはだかる。
出生に強いコンプレックスを持つ岳二の若い魂を、受け止めようとする理子の魂の美しさ。傷つきやすい若い二人の心理の彩を、田坂監督は優しく見つめ、丁寧な描写を重ねて描いていく。同時に、古い時代のモラルや旧弊を、若さと知性、戦後のモラルで吹き飛ばそうとする、ヒロイン理子の生き方を提示する“女性映画”でもある。まさしく「信用ある日活映画」のキャッチコピーに相応しい文芸大作となっている。
また、伊佐山三郎のキャメラがとらえた、1950年代の風景が素晴らしい。冒頭の国鉄常磐線・取手駅の旧駅舎、小林旭が登場する京都駅、京都市内の風景。琵琶湖畔、東京の街並・・・ 今は失われてしまった。在りし日の光景が、モノクロの美しい映像で活写される。失われたといえば、この映画の登場人物たちのモラルもまた、現在の感覚とはかけ離れている。若い魂が悩み、苦しむ様は、今から見ると大げさに感じられるかもしれないが、これが昭和30年代の日本人の感覚だったと、改めて味わう楽しさもある。
田坂具隆監督は、翌昭和33(1958)年のゴールデンウィーク大作『陽のあたる坂道』で、再び裕次郎、北原三枝を起用、新人・川地民夫を育てていくことになる。
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