『愛のお荷物』(1955年・川島雄三)
川島雄三監督。生涯に残した映画は51本。松竹、日活、東宝、大映と各社で残した作品は、今なお新たなファンを生み出している。洒脱で軽妙な会話。鋭い人間洞察と皮肉。ユーモラスかつシニカルなカリカチュア。日本映画らしからぬモダンな感覚、リズミカルなカットの積み重ねの心地よさ。川島組と呼ばれる俳優たちによるアンサンブルは、観客を魅きつける「おなじみ」の魅力もある。進行性の筋萎縮症という病に冒されながら、その私生活もまた洒脱で、様々な逸話が残されている。
川島雄三は大正7(1918)年2月4日、青森県下北郡田名部町、現在のむつ市に生まれている。明治大学専門部文芸学科に進学し、大学では剣道をたしなみ、映画研究部で映画評を執筆。昭和13(1938)年に松竹大船撮影所助監督採用試験を受験、競争率250倍という難関を突破して松竹入社。島津保次郎、吉村公三郎、清水宏、小津安二郎、野村浩将、木下恵介、大庭秀雄ら、松竹大船を代表する監督のほとんどに助監督として師事する。この頃、大阪を愛した作家・織田作之助との公私に渡る交流を暖める。川島と意気投合した織田は「日本軽佻派」を名乗っていた。日本が長く辛い戦争に突入し、数多くの監督や俳優たちが応召され、戦地に赴いていった時代でもあった。
昭和18(1943)年、25歳の若さで、監督昇進試験に首席で合格。昭和19(1944)年には、織田作之助原作脚本による第一作『還って来た男』を発表。映画界そのものが、戦時体制に迎合しなければならなかった時代に、時流を全く感じさせない作風は、当然のことながら不評だったが、後世に「川島調」と呼ばれるスタイルが散見される。
余談だが『還って来た男』のロケハン中、大阪の町を自慢のキャメラで撮影していたところ、憲兵か兵隊に呼び止められ、不快な思いをしたというエピソードが残されている。
川島のキャメラ・マニアはつとに有名で、いつも首からはファインダーをぶら下げて覗き込んでいたという。川島映画にも、キャメラ道楽の人物がしばしば登場する。『愛のお荷物』の東野英治郎扮する祖父は、首から高価なキャメラを何台もぶら下げている。孫たちを集めて撮影するのは、当時、世界初だった1分間キャメラ、ポラロイドランド・モデル95。日本では一般に市販されていないもので、川島のご自慢の逸品だった。
さて戦時中に監督デビューを果たした川島だったが、『還って来た男』の次に会社の命で撮らされたのが、戦地の兵士慰問のための恤兵映画。江戸時代の弥次喜多がタイムスリップして、昭和の宝船に現れるといった奇想天外な着想。ハリウッドのパラマウント喜劇を意識したドライなスラップスティックを織りまぜたヴァラエティ・スタイルは、同時代の『ハリウッド・キャンティーン』(1944年)などを連想させるもの。そのモダンさゆえに、戦後国策調の部分をカットして再編集され『お笑ひ週間 笑ふ宝船』(1946年)として公開されている。戦時中の国策映画が、GHQの検閲を受けて占領下のニッポンのバラエティ映画としてリニューアルされてしまうところに、川島のモダンな感覚の普遍性が伺える。
『笑ふ宝船』の三ヶ月前に公開された『ニコニコ大会 追ひつ追われつ』(1946年)は、森川信と空あけみによる戦後初のキスシーンが話題となった。続く『深夜の市長』(1947年)では、フィルムノワールの香りも漂わせ、ギャングを題材にした作品だったが、松竹上層部からの評判は芳しくなく、本作の失敗により助監督へ降格させられる。この頃、大船撮影所で柳沢類寿、西河克己、小林桂二郎らとサロン「泥馬クラブ」を結成し、戯作精神溢れる新聞を発行。この時の寄稿は、平成元年発行の雑誌「ユリイカ臨時創刊 総特集 監督川島雄三」に採録されている。
一年間干された後、昭和23(1948)年6月『追跡者』で監督復帰。銀行ギャングと潜入刑事の駆け引き、非情な世界とヒューマニズムを描いた作品。続く『シミキンのオオ!!市民諸君』(1948年)は、松竹のドル箱だった浅草出身の人気コメディアン、シミキンこと清水金一をフィーチャーしたコメディ。ハリウッド映画もかくやのシチュエーション・コメディとなった。新円切り替えで成金となった高屋朗の大金持ちが、三島茶碗と同じものだと思ってメクラ島なる、無人島を購入。仕方ないからとリゾート地にしようと、成金一行が島にやってくると、そこには船が難破して漂流した数人の男たちと一人の女性が民主的な生活をしていた。そのリーダーがシミ金扮する金八で、ターザンのようなスタイルで登場。リアリズムとは無縁のコメディは、それまでの日本映画にはないものだった。
続く『シミ金のスポーツ王』(1949年)でもドライなコメディを成功させ、SKD(松竹少女歌劇)の花形・秋月惠美子、芦原千鶴子主演の『夢を召しませ』(1950年)では、レビュー・ファンタジーというジャンルを成立させているが、本作を機に再び一年近く干されることとなる。
昭和27(1952)年『相惚れトコトン同士』で、若き日の今村昌平が助監督として参加。この頃、軽いタッチの娯楽映画専門監督の感があり、会社の命令のまま映画を作っていた川島雄三に、今村が業を煮やして「なぜ、こんなにひどい映画を撮るんですか?」と疑問を投げかけたことがある。川島の答えは「生活のためです」。日本映画黄金時代にさしかかった昭和20年代後半。川島は作品が完成するごとに行方不明となったというエピソードも残されている。
昭和29(1954)年、6月公開の『昨日と明日の間』を最期に川島雄三は松竹を退社。『還って来た男』からちょうど24本目の作品となった。同年、製作再開を決定した日活に、松竹のプロデューサー山本武、今村昌平らに続いて移籍。『純血革命』(53年)で川島組に出演した三橋達也は、川島に移籍をすすめられた。移籍をしぶる三橋に、川島は「おまはんが来てくれないと、俺はシャシンがとれないんだよ!」(カワシマクラブの三橋達也インタビュー)と大阪弁で言ったという。
川島雄三の日活移籍第一作『愛のお荷物』が公開されたのは、翌昭和30(1955)年3月18日。山本武プロデューサー、助監督の今村昌平、そして主演の三橋達也ともども入社第一回作品となった。
『シミ金のオオ!!市民諸君』『シミ金のスポーツ王』、『東京マダムと大阪夫人』(1953年)で助監督をつとめ、『学生社長』『新東京行進曲』『お嬢さん社長』(1953年)などの脚本も手掛けた、名伯楽・柳沢類寿と共にアンドレ・ルッサンの「赤んぼ頌」を換骨奪胎。バースコントロールをテーマに、セックスと妊娠をめぐる登場人物たちの右往左往を描いた艶笑喜劇となった。当時の日活は「信用ある日活映画」のキャッチコピー通り、良心的な文芸映画や風俗喜劇を得意としており、『愛のお荷物』もプログラムピクチャーとは一線を画した大作映画となった。
人口増加を食い止めるための「受胎調節相談所設置法案」をめぐる国会での攻防戦。当の厚生大臣である新木錠三郎(山村聰)の妻・蘭子(轟夕起子)も40代後半でご懐妊。その息子・錠太郎(三橋達也)は、父の秘書で五代家のお嬢さん冴子(北原三枝)から妊娠を告げられる。人物たちは適度にカリカチュアされ、歯切れの良いセリフの応酬が小気味いい。
フランキー堺、小沢昭一、ナレーションの加藤武といった川島組常連俳優たちの魅力。出番は少ないが、ジャズ・ドラマーとして人気を博したフランキー堺の抜群のコメディ演技にご注目。落語の若旦那よろしく、三橋達也の放蕩息子のユーモラスさ。芸達者による狂騒曲は、上質なウエルメイド喜劇の味わい。
厚生委員会のセットは、川島の明治大学時代の友人である国会議員の飛鳥田一雄氏の協力で、国会議事堂にある実物を、中村公彦らが模した。この撮影の時に、飛鳥田議員は川島に議員バッジを貸したものの、ついに返却されることはなかったという。ともあれ本作を機に、日活で川島は二年間に9本もの作品を残していくことになる。