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クレイジーキャッツの音楽史 第3回 スーダラ節の衝撃

クレイジーキャッツの音楽史 第3回 スーダラ節の衝撃!
講師・佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)

NHK文化センター「クレイジーキャッツの音楽史」第3回(5月20日(金)19:00~20:30)「スーダラ節の衝撃」での講義内容を再録(放送ではカットされている部分もそのままテキスト化してます)。

イラスト・近藤こうじ

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●第3回「スーダラ節の衝撃」

♪わかっちゃいるけどやめられない!-じだらくな生活を送るサラリーマンを風刺したコミックソング「スーダラ節」は、累計売上げ80万枚をこえる大ヒットを記録。ニッポン中に大きなインパクトを与えました。その衝撃がもたらしたものとは何だったのでしょうか?青島幸男の作詞・萩原哲晶の作曲により曲が完成したときに、実は歌うべきか悩んだという植木等のかっとうも含めてお話しします。

1961年8月20日リリース!

1961(昭和36)年8月20日。ハナ肇とクレイジーキャッツとしては初の音楽シングル「スーダラ節」がリリースされました。作詞:青島幸男 作・編曲:萩原哲晶 売り上げは80万枚以上! 今夜は「スーダラ節」のインパクト、そしてそれがもたらしたものとは何か? 

・クラシックへの道を捨てた音楽家…萩原哲晶
・胸の病気を患いサラリーマンになれなかった放送作家…青島幸男
・実家の寺を飛び出してジャズマンになった男…植木等

自堕落な生活を送るサラリーマンを風刺したコミックソング…「スーダラ節」が誕生しました。ショボクレ男のコミックソングでした。

まずは、東宝映画 1962.08.11 私と私 からハナ肇とクレイジーキャッツで「♪スーダラ節」をお聞きください。

M1 ♪スーダラ節 1962.08.11 私と私(東宝)

「クレイジーのサウンド・メイカー」

作詞・青島幸男 
クレイジーキャッツの座付き作家として「おとなの漫画」「シャボン玉ホリデー」の構成を手がけ「スーダラ節」「ドント節」「ハイ、それまでョ」などのクレイジーソングを作詞。放送作家として自ら画面に登場して「青島ダァ!」のギャグで一世を風靡。元祖マルチタレントです。

作曲・萩原哲晶
昭和20年代、萩原哲晶とデュークセプテットを率いていたジャズマン。ハナ肇、植木等も在籍していた。昭和30年、クレイジーキャッツの前身、ハナ肇とキューバンキャッツ結成時のメンバー。作曲に専念するためにのちに脱退。

この二人がクレイジー・ソングにおけるジョン・レノンとポール・マッカートニーだと僕は思います。

スイスイスーダラッタ…
クレイジーキャッツ結成6年目にして初めてのレコード。植木等が、麻雀で良い手が来た時や、新しいネクタイを周囲にアピールしたい時の口グセが…

東宝クレージー映画の記念すべき第1作『ニッポン無責任時代』では、植木等さん演じる「平均(たいらひとし)」が階段を駆け上がりながら歌います。インパクトのある歌唱をお聞きください。

M2 ♪スーダラ節 1962.07.29 ニッポン無責任時代(東宝)

1961(昭和36)年のクレイジーキャッツ

*4月9日 NHK「若い季節」(〜1964年12月28日)スタート。ドラマ仕立てのバラエティ。
*6月4日NTV「シャボン玉ホリデー」第1回「レッツゴー ピーナッツ」放映(〜1972年10月1日)。
*クレイジーキャッツ初のレコードが企画される。

萩原哲晶とハナ肇の再会

*1956(昭和31)年、キューバンキャッツを「作曲家になりたい」と辞めた萩原哲晶。
*テレビドラマの劇伴などを手がけていたが「冨田勲なんて人が台頭してきてね。これは適わない」「歌でも書いてみようか」と考えていたところハナ肇と再会。
*旧知のクレイジーの曲を書くことに

衆知を集めて切磋琢磨する

*渡辺晋は、新企画をクレイジーや青島幸男、テレビ局のディレクターたちを集めてディスカッション。
「クレイジーキャッツのレコードを作ろう」「おとなの漫画」「こりゃシャクだった」をコミックソング化して、メンバー全員で歌うことに。
作詞は青島幸男 作・編曲は萩原哲晶に決定。

B面は植木等に・・・

*A面の「こりゃシャクだった」は、オチに流行語のフレーズを入れ、クレイジーの面々がリードヴォーカルをとるコント形式にしようと、話はすぐにまとまった。
「社長、B面はどうしましょうか? 植木のソロはどうですか?」
*「唄のうまい」「面白い男」の植木が唄うなら「面白い歌にしよう」というのが渡辺晋の考えだった。
「植木のアレを歌にしようじゃないか?」

植木等のアレ・・・

*植木がちょっと得意げになるときに出るフレーズ。
*ある晩、植木家の電灯が切れてしまった。家長の威厳で修理を始めるも一向に電気がつかない。
*そこでやって来たのが近所の電気屋の少年。いとも簡単に直してしまった。片付けるときに「ススラ、スーラララッタ、スラスーイ、スイ」と鼻歌
*それがいつしか植木が自慢する時の口癖になっていた。

植木等の不安 渡辺晋の野心

*レコード業界は、大御所の作曲家・作詞家たち専属作家たちがヒット曲を作っている。
そこにいきなりクレイジーの植木が入って、「おとなの漫画」の青島幸男に、”粗忽の多い人萩原哲晶が書いた曲を唄っても… しかもデクさん「流行歌の作曲はこれが初めてです」
*しかし、それこそが渡辺晋の狙いだった。渡辺プロを起業、「日劇ウエスタンカーニバル」を成功させ、自社のタレントをテレビ局に供給するユニット形式で「シャボン玉ホリデー」を立ち上げたばかり。
*次はレコード業界だ。テレビでもステージでも、若いファンは「新しいこと」に敏感。
*ならば、自分たちで、音盤を製作して、レコード会社に供給しようではないか!

わかっちゃいるけど…

*青島幸男の詞は、サラリーマンの悲哀をペーソスたっぷりに描いているが、どこか乾いていた。
*青島は放送作家になる前に銀座で「トリスバー」を開いていた。そこに集うサラリーマンをイメージ。しかも、最後のフレーズが効いていた。
*わかっちゃいるけどやめられない
*この言葉で、それまでのコミカルな物語が一気に深くなり、共感を覚えるのだ。
*では曲のタイトルはどうするか?

1960年「節」ブーム到来!

*60年安保に沸き立つ昭和35(1960)年、マイトガイ=小林旭が日活アクション映画のなかで不思議な歌を歌った。
「ダンチョネ節」「ズンドコ節」「ツーレロ節」など、俗謡とマンボなどのラテンのリズムを融合させた「アキラ節」が大流行した。
「節(ぶし)道」の始まり

M3 ♪ズンドコ節  小林旭 1960.05.28 海を渡る波止場の風 日活

俗謡の現代アレンジがトレンドに

*守屋浩『有難や節』(作詞:浜口庫之助)
*名古屋で歌われていた俗謡を、日本コロムビアのディレクターが発掘。
*浜口庫之助が補曲。ロカビリー出身の守屋浩が唄って大ヒット。
*日活で『有難や節 あゝ有難や有難や』(1961年・西河克己)として映画化。

青島幸男の才覚 クレイジーソングの原点

ダニー飯田とパラダイスキング 石川進「それが悩みさ」
ディレクター・草野浩二さんに、青島幸男さんが「作詞・作曲がしたい」と持ちかけた。主人公の大言壮語は、クレイジーソングのルーツ。

M4 ♪それが悩みさ 石川進 ダニー飯田とパラダイスキング 作詞・作曲:青島幸男 1961.3.20

青島幸男の詞は親鸞の教えに通じる

*レコーディング直前、植木は悩む。「これは俺じゃなくて、ほかの人に唄ってもらったらいいのでは?」
*釈然としない植木は、家に帰って父・徹誠に自分の気持ちを話した。すると・・・
「お前にな、レコーディングさせようって人が日本にいるってことは、前は本当に幸せものだ」

父・植木徹誠のことば

*親鸞聖人は90歳で天寿を全うされたが、お聖人の生涯とはなんだったのでしょうか? と訊かれたときに『わかっちゃいるけど、やめられない人生ではあった』と答えた。
*「この歌にはその真理がある、ヒット間違いなしだ!」
*「この詞を書いた青島幸男という男は素晴らしい!」

唄いながら笑いだす植木等

*伴奏は宮間利之とニューハード
ピアノ、ギター、ベース、ドラムス、パーカッションを加えたリズム・セクション、トロンボーンは4本、トランペット4本、アルトサックス2本、テナー2本、バリトン1本。弦が8人、ファゴット、ジューイッシュ・ハープなど音大から駆り出されたクラシック奏者も加えると30人編成。
*植木が唄いだすと、そのおかしさに音大生やバンドマンが笑いだす。植木も唄っているうちに吹き出して…

これをA面にしよう

「ア、ホレ」で始まる「例のアレ」は、植木のフィーリングに合わせて作り上げられた。
*萩原は現場で、植木のアイデアを「それ、いいですね」「それいきましょう」と取り入れた。
*一番と二番のメロディが異なっている。
*植木が間違えたのを、萩原が「こんなものはあまり譜面通りに唄わないほうが、かえって気分が出るんですよ」
*植木の声はまるで、笑いながら唄っているようだった。それがかえって不謹慎に聞こえて「スーダラ節」は世紀の傑作となった。

M5 スーダラ節 作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶・東芝音工・JP-1300・1961年8月20日

マジックワード「ア・ホレ」

*歌い出しのメロディーは音頭のリズムとベストマッチ。どんちゃん騒ぎのリズム。
*植木がアドリブで放った「ア・ホレ」がきっかけとなって
*スイスイスーダラッタ~からラテンのリズム「バイヨン」に転調する。
*音頭とバイヨンを「アホレ」で繋いだ。
*音頭が転じて洋楽となる。

「スーダラ節」は親鸞の教えに通じる

*「悪性さらにやめがたし 心は蛇蝎のごとくなり」
*いかに仏の教えに身を捧げても「悪い心」が起こることを断ち切れない。
晩年の親鸞が自身の愚かさについて語ったことば。
*「わかっちゃいるけどやめられない」への共感。子供からお年寄りまで共感した。

音楽出版ビジネスの時代へ

「スーダラ節」が画期的だったのは、レコード原盤を渡辺プロが制作。海外では音楽出版という考え方が一般的になりつつあった。
*1962年10月、渡辺音楽出版を設立。クレイジー、ザ・ピーナッツ、加山雄三などのアーティストの楽曲の原盤管理する音楽出版ビジネス。
*その原盤第一号をさかのぼって「スーダラ節」とした。

M6 ドント節 植木等 作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 東芝音工・JP-1350・12月20日発売(再発は1963年1月20日)

サラリーマンは気楽な稼業か?

「スーダラ節」発売から4ヶ月後、12月20日シングル第二弾「ドント節」「五万節」リリース。 作詞:青島幸男 作・編曲:萩原哲晶
「サラリーマンは気楽な稼業」は、ホワイトカラーの気楽さを歌って、子供や主婦、ブルーカラーには大受け。子供たちが、テレビの植木の振り付けを真似して「ちょっこらちょいとパァにはなりゃしねえ」と唄っていた。

ちょっこらちょいとクビにはなりゃしねえ

子供たちが、テレビの植木の振り付けを真似して「ちょっこらちょいとパァにはなりゃしねえ」と唄っていた。

テレビ局には、現役のサラリーマンたちから「あの歌をテレビでやらないでくれ」「我々は一生懸命働いているんだから」「子供が真似して困る」などのクレームが殺到。

青島が最初に書いた詞は、もっと直裁的だった。歌のオチは最初「ちょっこらちょいとクビにはなりゃしねぇ」だった。しかし、渡辺晋が「青ちゃん、それはキツ過ぎるよ」と指摘して「パァ」に

 やはり渡辺晋が指摘したのは「三度に一度はオヤジのツケさ」の部分。最初は「会社のツケさ」だったのを「これもキツイよ」と和らげた。
 当時の流行語に「社用族」という言葉がある。

昭和23(1948)年、太宰治の小説「斜陽」をきっかけに、敗戦後没落した上流階級や社会の気分を現した「斜陽族」が流行語となり、その語呂合わせとして昭和20年代半ばから流行した。

 社用にかこつけ、会社の経費でバーやキャバレーで飲み食いするサラリーマンのことを「社用族」と呼んでいた。

 森繁久彌、小林桂樹、加東大介の東宝喜劇「社長シリーズ」(1956年〜1970年)のなかで、何かにつけて経費で宴会をやりたがる、三木のり平の中間管理職が登場。「パァーっといきましょう!」が口癖で、極めてC調なキャラクターだった。ちなみにC調とは「調子いい」をジャズマンの符丁でよくやる前後をひっくり返したもの。

 「スーダラ節」を歌う植木を、マスコミは「スーダラ男」と名付け、その調子の良さを「C調」と呼んだ。

 さて「三度に一度は会社のツケさ」は、そうした「社用族」に対する皮肉だったが、「オヤジのツケさ」に変えることで「大店の若旦那が寝所をつぶす」落語の世界とも取れるようになった。

 後にも先にも、これほどサラリーマンを歌った曲は、歌謡史の中ではなかったと、坂本龍一のラジオ番組「サウンド・ストリート」(85年6月25日)で、大瀧詠一が、植木等を前に分析。当時の若いサラリーマン=民衆ということでは「フォークソングだった」とも語っている。

さまざまな「五万節」

クレージー映画以外でもさまざな歌詞で「五万節」が歌われている。これぞ「俗謡」である。
松竹『クレージーの花嫁と七人の仲間』(1962年4月)
東宝『ニッポン無責任時代』(1962年7月)
東宝『夢であいましょ』(1962年9月)
宝塚『ハイハイ3人娘』(1963年1月)

M7 五万節 作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶 東宝映画『夢で逢いましょ』(1962年・東京映画)より

スーダラ男から無責任男への進化

*青島幸男が「ドント節」の時に感じていたように、サラリーマン社会へのアンチテーゼとしてのコメディを、東宝文芸部の田波靖男が企画。
*田波靖男「他人の思惑など何とも思わぬ男がひょんなことから会社に入り、勝手気ままな行動をしたらどんなストーリーが展開していくか」
*青島幸男は「”ニッポン”が持つ仰々しさ、不謹慎さに感動して「ものすごく創作意欲を刺激された」
*1962(昭和37)年7月、東宝『ニッポン無責任時代』(古澤憲吾)公開。

M8 無責任一代男 作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶 『ニッポン無責任野郎』(1962年・東宝)より

青島幸男

誠心誠意とか、不言実行、刻苦勉励、研鑽努力なんて四文字を、お説教の中でくりかえし聞かされ続け、しかめつらしくそれを口にしていた大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この歌は我が意を得たりとばかりに受け入れられたに違いない。

M9 ハイそれまでヨ 作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶 東芝音工・JP-1451・1,962年7月20日発売

「♪無責任一代男」のカップリンソングとして昭和37(1962)年7月20日にリリースされた。イントロから歌い出しにかけては、ビクターでフランク永井が歌っていた、吉田正作曲のムード歌謡風。
 植木の歌声はどこまでも甘く、クルーナー歌手としてのうまさが堪能できる。ところが「テナコト言われて〜」から急展開、ツイストへと転調する。まさに落差の驚きと笑いが、受け手にもたらされるのだ。
 作・編曲の萩原哲晶は、植木は声楽家に師事してきた、真面目に歌を勉強してきた人だから、そういう歌を歌いたがっていた。でもそのままでは「植木の存在理由がなくなる」ので、後で崩すときに、スローで始めたものが「後でドカンと、突然早くなったら面白い」と思ったと、大瀧詠一とのラジオでの対談(82年8月15日・ニューミュージック・フォーラム)で語っている。
 曲が出来上がってから、渡辺晋宅でミーティングが行われた。植木はそこで、初めて「ハイそれまでヨ」のメロディを聴いた。
 転調のツイストに乗った植木は、萩原によれば、その場で踊りだして「これはいい。すぐにハナに電話をかけろ!」とご機嫌だった。ところがハナは、その時、家で寝ていたという。
 転調の魅力もさることながら、1番、2番、3番の間奏が全部違うパターンなのも凄い。
 そのことについて萩原は「ガクンと変わっても構わないし、変わらなくてもいい」「どうにでもなるんだ」と大瀧との対談で話している。
 その場のノリもあるのだろうが「歌とかは関係のないものが出てきて」聴いている人たちが「ドカンとずっこける」のでいい、と言っているが、これこそジャズマンの感覚だろう。
 大瀧は、それがポップ・ソングの中で急に現れたのが凄いと指摘した。それを「歌とは全く関係のない感想が出てくるでしょう」と受けるデクさん。恐るべしである。
 青島幸男の歌詞のインパクト、植木の歌の味わい、そして萩原のアレンジの奇抜さ。数あるクレイジー・ソングの中でも傑作の一曲となっている。

ショボクレ人生

*1962(昭和37)年12月20日。「これが男の生きる道」カップリング。
「スーダラ節」の姉妹編のような詞の構成。

*タイトルは、戦前の上原敏「裏町人生」(1937年)のパロディ。
「みっともないこと」を肯定し、開き直って生きることを奨励している。

M10 ショボクレ人生 植木等 作詞・青島幸男 作曲・萩原哲晶 映画『ニッポン無責任野郎』(1962年・東宝)より

ホンダラ行進曲

*1963(昭和38)年4月20日発売。作詞:青島幸男 作・編曲:萩原哲晶
軍国少年だった萩原もメンバーも、幼い頃から行進曲で育ってきた。

*萩原のアレンジは、戦前の「丘を越えて」や戦後の「青い山脈」の明るく楽しい希望溢れる歌謡曲のノリ。

*青島は「この歌には柄にもなく虚無的なムードがある」

*最後の「だからやらずに」の開き直りは、「♪スーダラ節」の「わかっちゃいるけど」にも通じる。

M 11 ♪ホンダラ行進曲 ハナ肇、植木等、谷啓、クレイジーキャッツ 作詞・青島幸男 作曲・編曲・萩原哲晶 キング・EB-890・1963年4月20日発売

青島の歌詞の達観、萩原のマーチの明るさ。理屈抜きに楽しそうに歌うメンバーたち。これが「クレイジー行進曲」第1作となった。谷啓のキーの合わないところまでも「味」になっている。
 軍国少年だった萩原もメンバーも、幼い頃から行進曲で育ってきた。否応なく行進させられた世代だけに、行進曲が「骨の髄まで染み込んでいる」のである。
 しかも萩原のアレンジは、戦前の「♪丘を越えて」や戦後の「♪青い山脈」の明るく楽しい希望に溢れる歌謡曲のノリで、青島の一見、いや一聴、意味不明の歌詞の凄み。最後の「だからやらずに」の開き直りは、「♪スーダラ節」「わかっちゃいるけど」にも通じる。
 青島は「この歌には柄にもなく虚無的なムードがある」(「わかっちゃいるけど・・・シャボン玉の頃」文藝春秋・86年)と書いている。メディアの寵児となりクレイジーと一緒に快進撃を続けてきた青島だが、「実際この時は落ち込んでいた時期」で、これが最後の一曲のつもりで書いたというが、それゆえ傑作になった。
 大瀧詠一は「世に無意味な歌は数あれど、無意味を歌った歌は少ない」LP「クレイジーキャッツ・デラックス」(86年)のライナーで評しているが、けだし名言である。

聴き逃し配信はこちらから!

第1回 初心者のためのクレイジーキャッツ入門 は こちらから!

第2回 戦後ジャズブームと7人の猫たち はこちらから!

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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