ザッツ・エンタテインメント! MGMミュージカルを支えた人々 アーサー・フリードとその時代 PART4
佐藤利明(娯楽映画研究家)
*1995年レーザーディスク「ザッツ・エンタテインメント !スペシャル・コレクターズセット」のブックレット解説に加筆修正しました。
MGMミュージカル黄金時代
戦争が終わると、他のスタジオではシネ・ミュージカルには、食指を動かさなくなっていたが、MGMスタジオだけは活気に溢れていた。アーサー・フリード以外にも数多くのプロデューサーが、それぞれのユニットでミュージカル、音楽映画を製作。その中でも『姉妹と水兵』(1944年)や『錨を上げて』(1945年)など、オールスター映画を得意としたジョー・パスタナックが筆頭だろう。
パスタナックはハンガリー出身。1930年代にアメリカへ渡り、ユニヴァーサルの『天使の花園』(1936年)で、ディアナ・ダービンの売り出しに成功した敏腕プロデューサー。フリードを“コンテンポラリー”とするならば、パステルナックは“オールド・スタイル”。彼はジュディ・ガーランドやジェーン・パウエルを第二のディアナ・ダービンとするべく、音楽映画を作っていた。
1930年代、「ブロードウェイ・メロディ」シリーズの持っていたMGMミュージカルらしさを継承したのが、ジャック・カミングス。彼はエレノア・パウエルがかつて、そうだったように、エスター・ウイリアムズをMGMミュージカルのスペクタクル=見世物にすべく、『世紀の女王』(1944年)、『水着の女王』(1949年)などをプロデュースした。
『世紀の女王』は、当初、レッド・スケルトンの『ミスター・エド』というコメディとして製作されていたが、相手役として元水泳チャンピオンのMGM契約女優のエスター・ウイリアムズを抜擢。クライマックスの水中バレエ“The Aqua-ballet”(TE1・3)が試写で好評だったため、急遽タイトルを変更、エスター主演の「水中ミュージカル」として売り出すことになった。
エスターは、およそ10年間に15本以上もの水中ミュージカルに主演することとなる。カミングスは、またフレッド・アステアとエレノア・パウエルのダンス・バトルで知られる『踊るニュウ・ヨーク』(1940年・T E1)や。立体映画ブームの中作られた3Dミュージカル『キス・ミー・ケイト』(1953年・T E2・3)、初のシネスコ・ミュージカル『掠奪された七人の花嫁』(1954年・T E1)といったエポック・メイキングも数多くプロデュースしている。
そうしたシネ・ミュージカルがMGMカラーを作り、最盛期の1949年にはMGMスタジオだけで、10本ものミュージカルがリリースされている。
『アニーよ銃をとれ』と『踊る大紐育』
アーヴィング・バーリンのブロードウェイ・ヒットである、アニー・オークレイの物語「アニーよ銃をとれ」を映画化するにあたってアーサー・フリードは、ジュディ・ガーランドをキャスティングしていた。相手役にはイギリスの舞台で「オクラホマ!」に出演していた無名の若者、ハワード・キールを起用。バズビー・バークレイが監督として指名され、作品の成功は約束されていた。
リハーサルを重ね、ミュージカル・ナンバーのプレスコ(事前レコーディング)を終えて、ナンバーの撮影に入ったが、思わぬアクシデントとなる。ジュディ・ガーランドが、極度の緊張からくる神経症で、撮影が遅れがちになり、予算超過を懸念したMGMは、彼女の降板を決定。しかし、ジュディが演じた“I’m An Indian Too”のフィルムは奇跡的に保存されており、T E3で蘇った。
結局、アーサー・フリードは代役としてパラマウントのベティ・ハットンを招き、監督にはベテランのジョージ・シドニーが起用されることになった。結果、映画『アニーよ銃を取れ』(1950年)は大成功を収め、MGMのマスターピースとなる(T E2・3)。
ジュディ・ガーランドは、『アニーよ銃をとれ』や『ブロードウェイのバークレー夫妻』(1949年・未公開)で次々とトラブルを起こし、連続降板していた1940年代末、皮肉にもMGMミュージカルは真の黄金時代を迎えようとしていた。
ジーン・ケリーとスタンリー・ドネンは『私を野球につれてって』(1949年・未公開・T E1)のコレオグラファーとして作品に貢献、続いて、始めての共同演出作『踊る大紐育』(1949年)に取り組んだ。
レナード・バーンスタイン、ベティ・コムデン、アドルフ・グリーンのブロードウェイ・ヒット「オン・ザ・タウン」をベースにしたミュージカル映画。フランク・シナトラ、ジーン・ケリー、ジュールス・マンシンの三人の水兵が、24時間の休暇で上陸して恋に落ちるという物語。
オール・ニューヨーク・ロケを敢行したオープニング・ナンバー“New York, New York’(TE1)は、『ウエストサイド物語』(1960年)以前に、ミュージカルを路上に開放したという点でも映画史上に残る名場面だろう。
その斬新な映像は、これまでのシネ・ミュージカルにはないもので、今なお色あせぬ視力を持っている。フリードの発掘した人材が、MGMミュージカルの牽引となったのである。
『巴里のアメリカ人』と『ショウ・ボート』
『雲流れ去るまで』(1946年・未公開)や『歌詞と音楽』(1948年・未公開)で、コンポーザー・シリーズを製作してきたフリードの長年の夢が、ジョージ・ガーシュウインの名曲をちりばめたソングブック映画をプロデュースすることだった。
ガーシュウインの伝記映画は、すでにワーナーが『アメリカ交響楽』(1945年)で試みており、オリジナルのストーリーで、ガーシュウインのヒット曲やピアノ・コンチェルト、協奏曲をちりばめたものにすべく、プロジェクトはスタートした。
当初は、フレッド・アステアとジュディ・ガーランドのキャスティングも考えられていたという。脚本はブロードウェイ出身のアラン・J・ラーナーが担当。主演はジーン・ケリー、監督はヴィンセント・ミネリというベスト・メンバーが集結して『巴里のアメリカ人』(1951年)が完成した。
『ヨランダと盗賊』(1945年・未公開)では、失敗に終わったドラマチック・バレエがクライマックスの16分37秒という“An American In Paris Ballet”(TE1・3)に結実。アカデミー最優秀作品賞をはじめ6部門(タールバーグ賞と名誉賞を除く)受賞し、フリード・ユニットにとってエポック・メイキングとなった。
同年に、フリードはこれも念願だった『ショウ・ボート』(1951年)のテクニカラー完全映画化に成功。このジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン二世の名作舞台は、1929年と1936年にそれぞれユニヴァーサルで映画化されていた。その後、1938年にMGMが映画化権を獲得、フリードは1943年に本格的な映画化に向けて、準備を開始するが、脚色が気に入らず、その企画はジェローム・カーンのソング・ブック映画『雲流れ去るまで』(1946年・未公開)となり、「ショウ・ボート」メドレーは映画の冒頭を飾った。リナ・ホーンのパートはT E3に収録されている。
やがて1950年になってフリードは、ジョージ・シドニー監督、マグノリア役にキャサリン・グレイスン、ゲイロード役にハワード・キールをキャスティング、超大作として映画化を決定した。悲劇のヒロイン、ジュリーには当初、リナ・ホーン(46年版)が候補に上がっていたが、結局、エヴァ・ガードナーとなった。この経緯はT E3に詳しい。