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鴨下信一さん インタビュー・第3回「植木等ショーの時代 その2」

鴨下信一さん インタビュー・第3回「植木等ショーの時代 その2」

このインタビューは2010年秋に上梓した「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社)のためにまとめたものです。同書はすでに絶版になっており、版元もなくなってしまったので、読んで頂く機会がなくなってしまいました。今回、追悼の意味もこめて、ここにアップさせて頂きます。鴨下信一さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

#14「ザ・ドリフターズと共に」(1967/10/05)

—「ザ・ドリフターズと共に」も、中原弓彦さんの構成、鴨下さんの演出です。ここでドリフ登場というのが、当時の渡辺プロですね。

鴨下 そうですね。売り出していたし、TBSでも番組やってました(「ドリフターズ・ドン!」)。でも、ほとんど記憶がない。ちゃんとやったのかどうかも定かではない。でも、やった覚えは確かにある(笑)。

—以前、鴨下さんが「植木さんをドキュメンタリー的に捉えたかった」と仰ってました。

鴨下 植木さんという人を知れば知るほど、ドキュメンタリーが良い、と思いました。もっと後、植木さんと藤岡琢也で「仏教について」という対談をバラエティでやったことがあるんです。植木さん、実はそっちが一番面白い。「シャボン玉ホリデー」をやって、『ニッポン無責任時代』(62年)の平均(たいらひとし)をやって、サラリーマンものをやっていたときの、植木さんのドキュメンタリー・タッチは、あの頃、どんどん変わっていったという印象でした。明らかに『クレージー大作戦』(66年・古澤憲吾)になると、紙芝居。僕としては、やっぱり初期の平均とか『ニッポン無責任野郎』(62年)源等(みなもとひとし)などの初期の絵空事なんだけど、生々しいドキュメンタリー・タッチが、植木さんの持ち味だと思っていましたから

—リアリティがあるんですよね。でも『〜大作戦』で“天下の大泥棒”と言われても“何?”ってなるんです。

鴨下 そうそう、ああいうの上手くないんだよ。実は、フィクショナルなのは、あまり上手くない、と思っちゃうんだよね。それは設定にもよるんだけど。絵空事のマンガになっちゃう。その反面「おとなの漫画」(CX)って、とても良かったんです。つまり、時事ネタだから、ちゃんとドキュメンタリーというか、ノンフィクションの部分が、植木さんの持っている強烈なリアリティに合ってるんです。

—「おとなの漫画」ってザ・ニュースペーパーなんですよね。

鴨下 だから後々『新・喜びも悲しみも幾歳月』(86年・松竹・木下恵介)のお父さんの役が良かったのは、やっぱり植木さんのノンフィクションのリアリティですよね。植木さんは、表面はとてもフィクショナルなんだけど、根っこの部分で、すごく現実的なリアリティがある。それが「植木等ショー」にも欲しかった。僕は大衆向けの喜劇をそういうふうに考えていました。

#17「引田天功・ぼん太と共に」(1967/10/26)

—「引田天功・ぼん太と共に」はいかがでしたか?

鴨下 先代の引田天功もよく知っていて「植木等ショー」に出てもらったんです)。その後、チータ(水前寺清子)の「笑ってヨイショ」(69年)にも天功さんには出てもらいました。そういう人脈とアンテナは結構役に立ちましたね。でも、TBSじゃそういうことやると、ダメなのね。ドラマならともかく、バラエティじゃ、あんまり新しいことをやらない。だからずいぶん損したなぁ(笑)。

—東京ぼん太さん、当時は大人気でしたけど、あまり魅力を感じていませんでしたか?

鴨下 全然。ドリフはなんとなく記憶があるけど、ぼん太に関しては全くない。そんなもんなんです。結構、僕は無責任だね(笑)。そのかわり、僕が好きだったのは、隅から隅まで全部覚えてる。どういうギャグがあって、どこでどうしたっていうのは、全部覚えている。そうそう、この時だったのかな、人間ピラミッドをやって、植木さんが腰の骨を打って、大騒ぎだったんです。それは記憶にあります。

#24「われもし指揮者なりせば」(1967/12/28)

—この「われもし指揮者なりせば」は「植木等ショー」のハイライトです。

鴨下 これはハッキリ覚えています。目黒公会堂です。この時は大変でした。中継でしかもカラー放送だから、これが最大の難関でね。カラーの中継は、照明が4000ルクス以上ないと色が出ない、と技術に言われてまして。とにかく熱くて、大騒ぎでしたね。「植木等ショー」で一番印象に残っているのが、#4「梓みちよ・落語家と共に」、#12「当世三奇人と共に」、#24「われもし指揮者なりせば」、この三本です。

—目黒公会堂でリハーサルはされたんでしょうか?

鴨下  ナシ。ほとんどない。東京交響楽団は、確かうち(TBS)がスポンサーだったんです。当時、その関係でキャスティングしたんで、全員を集めるのは、当日がやっとでした(笑)

—クラシックとクレイジーの組み合わせは、ハイブローです。ダニー・ケイもニューヨークフィルと1980年にやりますし、谷啓さんも1990年代に「オーケストラの積み木遊び」コンサートをやります。その原点ですね。

鴨下 これはやっぱり、華々しかった。出来映えも実に良い。変な話、外国に出しても恥ずかしくないくらいに良いと思います。「ラプソディ・イン・ブルー」で通したということも大きい。最後のオチも利いてるしね。谷啓って本当に才人でね。ピアノをぶっ壊した後にどうしようか? 何か考えよう、となったときに、オモチャのピアノでテーマを弾けるから、最後にオモチャのピアノを出すという、とても洒落たエンディングを考えてくれました。

—谷啓さんはギャグのアイデアも豊富だと思います。

鴨下 この時、谷啓は一日で、ギャグを入れた譜面を作ってきたんだ。最初の発想は“クレイジーで楽器ギャグをやろう”。ピアニストのリベラーチェが、ピアノをぶっ壊すショーを、なんかで見たんです。最後に鍵盤がジャバラに全部抜けて“ピアノが歯槽膿漏みたいなってる!”って思ったのを、覚えていたんです。

—歯抜けピアノ(笑)

鴨下 「あれをやろうよ」っていう話になったら、みんな、乗るわけですね。で、音楽系なら谷啓に頼むのが一番ということで、中原さんにホンを書いてもらうことにして。“リベラーチェ良いじゃない!”と、みんなでワイワイ話してるうちに、指揮は石丸寛に頼むのが一番いい、って、それで「お願いね」って電話して。すぐに谷啓にも連絡して、銀座で会うことになった。

—銀座というのがいいですね。

鴨下 そう、銀座なんだよね。あの頃、打合せは銀座。「銀座で飲みながら話しましょうか」となったら、連絡した翌晩なのに谷啓はすっかりネタを書いてきたんです。もともと、植木さんが指揮して、クレイジー全員でクラシックコンサートをぶち壊しちゃう、というアウトラインは決めてた。ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」も決めてました。もっと凄いのは、その場で「うん、うん」と聞いてる石丸寛が、翌日にスコアを上げてきた。で、そこでほぼ固まって、中原弓彦さんが谷啓の家に行って、一緒にギャグを考えてもらって。「ラプソディ・イン・ブルー」にギャグを一つ一つ入れていったんです。

—みんなノッてたということですね。

鴨下 それもあるけど、当時の仕事はそれくらいのスピードでやらないと、とてもじゃないけど、彼らの生活のテンポに追いつかなかった。石丸寛が一晩で仕上げちゃう。もともとスコアがあるから、そんな芸当が出来るんだろうけど、ずいぶん面倒くさいことをお願いしたのにね。確か、その時に“一番最初は、東京交響楽団を呼んでるのに、植木が出てきても、東京交響楽団がまだ来てないので、しょうがないから、植木がソロで演奏する話にしよう”とか、“植木がソロをすると緞帳が開いて、東京交響楽団が演奏している”とか、すぐに全体の構成まで出来ちゃったんです。

—コンストラクトも銀座で出来ちゃった。

鴨下 幕が上がると東京交響楽団全員がいる、という設定は出来て、「じゃぁ音楽ギャグはどうするの?」と聞いたら、谷啓がすかさず「これをこうすると、“ずいずいずっころばし”になります」。いろんなことを言うのね。石丸さんも「大丈夫、できるよ」って、二時間位、飲みながら話して「じゃぁね」だもん(笑)。

—「じゃぁね」で仕事ができちゃう。

鴨下 できちゃったんだよ。すごいのよ。それで譜面が上がってきて、東京交響楽団に届けちゃう。それで本番に向けての準備が始まる。

—そこで目黒公会堂の収録当日になるわけですか?

鴨下 これは誰も知らない話なんだけど、安田伸が「ラプソディ・イン・ブルー」の一番頭のクラリネットのソロ、トチったんだよ。一生懸命、練習してきたのに。イントロのクラ(リネット)がいつの間にか「♪おーい船方さん」になっちゃうギャグのところで、安さん、いきなり真っ青な顔で人のところに来てさ「鴨ちゃん、鴨ちゃん、大変だよ」「何?」「俺の先生がいるんだよ。東京交響楽団の中に!」って(笑)。「そらま、いるだろうよ」「俺、吹けないよ。コワくて」って。案の定、トチっちゃった(笑)。先生がいたら、吹けないよね、やっぱり(笑)。

—最後に、ピアノを爆破した後に、クレイジー全員で「バンザーイ!」ってやるのが妙におかしいです。

鴨下 つまり、何やって良いかわからないから「バンザーイ!」をやっとけ、みたいな。でもクレイジーらしいよね。

—この回は録画でしょうけど、ほとんどオンタイムで、編集してませんよね。

鴨下 全然ないでしょう。ライブ感がありますね。公開であることもすごく大事だし、全部が生き生きしてますよね。今みたいな作り物の脆弱さというのは、ないです。

—「テレビの黄金時代」のなかで、小林信彦さんが書いていますけど、鴨下さんの「今回は、ピアノ一台ばらばらにするのをやりたいんですよ」一言がすべての始まりだったんですね。

鴨下 音楽家には、ピアノを壊すなんて発想は、まず有り得ないでしょ。局内では「お前は幼児性があって、ああいうものを壊したいんだろう?」って言われましたよ。「お前ら何にも知らねえな」と思いました。先輩方は頭が固くてダメですよね。(オンエア後)僕は怒られましたよ。その後もありとあらゆるところで。一番多かったクレームは「うちの娘に買ってやれないピアノを壊すとは何事だ」でした。あの頃は、ピアノ全盛期で、各戸に1台ピアノを、という時代だったんですよね。

—ピアノ教室がどこにもあって、女の子はお稽古に通って・・・

鴨下 でも、もちろん、どこの楽器会社ともタイアップできない。しかも僕は「赤いピアノがいい」って主張してね。キネコはモノクロだからわからないけれど、実は赤いピアノなんです。無理して赤いピアノを調達してきて、クレイジーもよく「うん」と言ったと思うけど、やっぱりセンリさんが、ちょっと嫌そうな顔をしたのは覚えてます。センリさんはインテリだし、クラシックの音楽家なところがあるからね。その点、エータローはいい加減なところあるから、大して嫌がらない。他のメンバーも、ピアノって楽器には、あんまり愛着がないから、どうでもいいらしいのよ(笑)。その反応は面白かったな。

—いくらコミックでも、ギャグでも、そこまでは・・・という感じですね。

鴨下 でも「リベラーチェがやってるから」と、僕はその一点張り。「あのギャグ面白かったよ〜」って、その一言で全て収めちゃう。みんなアメリカに弱いから(笑)。逆に言うと、僕らはみんな“アメリカかぶれ”で、バラエティ・ショーに関しては、誰もが「アメリカのものをなんとか日本でやりたい」と思ったんです。

—アメリカのバラエティがお手本だったんですね。

鴨下 これは幕内じゃないとわからないけど、非常に重要な事は、バラエティ・ショーは1時間番組じゃない、っていうこと。「植木等ショー」も30分番組だから良かった。アメリカのバラエティ・ショーは、ほとんど30分。やっぱり30分枠っていい。やっぱり1時間枠となると、ドリフの「全員集合」みたいな形でしかなくなったんだろう、と思いますね。

—なぜ30分なんですか?

鴨下 逆にいうと60分だと素話ができないんです。素話ができないとショーは、出来ない。60分ものって、全部セットを作って、役割を決めて、扮装して、何かを演じる。つまりエノケンさんなんです。エノケン映画みたいにシチュエーションを作らないと成立しない。でも30分だと素話ができる、素踊りができる。ただ出てきて、ホリゾントの前だけでもいいから、面白いことをやって、それで持っていっちゃうことが出来るのが30分なんです。

—話を戻します。一義的には「幼児のようにピアノを壊す」と捉えられてしまいますが、実は解体と再生なんですよね。それはダイジェストの発想、アンソロジストの考え方、鴨下さんの本質的なところは、そこにあるような気がします。

鴨下 結構それはあります。もう一つは、ドラマを作っていても、そんなにオリジナリティのあるドラマって、実はないんです。何通りしかないパターンで、何百も作ってきた。だから解体・再生して。リプロダクションを上手くしていかないと、いけないんです。

「植木等ショー」その後

—この回で、「植木等ショー」での中原・鴨下チームは終ります。鴨下さんは、なぜ第二期に参加されなかったんですか?

鴨下 会社の事情でしょう。僕はドラマをやっていましたから、実は忙しかったんです。この時期、ハッキリ言って。すごい忙しい人だったんです(笑)。

—ドラマとドラマの間の息抜きで、鴨下さんがお嫌いではない、バラエティを演出されたということですか?

鴨下 むしろ大好きでしたね。しかもある種の憂さ晴らしみたいな感じでやってました。変な話ですけど、僕はドラマの人の割には、“アチャラカ”をよく知っている(笑)。そういう仕掛けがあるから、クレイジーとやるのも、その後ドリフと「おれが一番!!」(68年1月)をやるときも、実にやり易かったです。言う事も聞いてくれるし、モメないし、実に面白かったです。

—「植木等ショー」以後、テレビも大きく変わって、クレイジーキャッツの黄金時代が終りに近づいてきます。

鴨下 昭和40年代後半になると、色々なものが変わってきちゃう。40年代が著しい変わり目です。やっぱり「植木等ショー」は、時代的には少し遅かったのかもしれませんね。もっと前の方が、いろんな制約がなくて、自由に出来たんじゃないかな。昭和50年代になると「漫才ブーム」になっちゃうから、クレイジーの出番もなくなっちゃう。TBSでも木曜夜9時はドラマになるんですね。

—「植木等ショー」の後に、中原弓彦さんとは「おれが一番!!」で組まれてます。

鴨下 次の「おれが一番!!」っていう、加藤茶や藤田まことが出る番組でね。そのとき、中原さんと何をやろうかって話して、そしたら何となく二人で「(ウジェーヌ・)イヨネスコやる?」ってことになって。めちゃくちゃなんだよね(笑)。確か「二人で狂う」という戯曲で、青島幸男と中尾ミエの夫婦ゲンカがどんどんエスカレートして、しまいには核爆発が起こっちゃう。ああいう不条理劇をやろうって、そんなバカなことが、よく出てきますね(笑)。最初、夫婦が、“亀は哺乳類か? 哺乳類か?”でケンカになるんだけど、その周りで革命が起こって、核戦争が起こっちゃう。中原さんはそれを「全部歌でやった方が面白い」って言い出して、「じゃぁ、やって」と頼んだら、「僕よりも井上ひさしさんなら絶対にうまい」って、頼んだんです。

—すごいですね。

鴨下 井上ひさしさんが仕事をしている“ドール”って喫茶店があるんだけど、そこへ行ってね。ところが、何も打合せもしてないのに、ひさしさん、すぐに書き始めちゃう。

—植木さんとはその後、バラエティでは?

鴨下 植木さん、本当に可笑しいからね。ちょっと後になるけど「四つのお願い」(70年)という番組で、藤岡琢也と植木等の対談、があって。これは可笑しかったです。藤岡琢也さんはジャズが大好きで、トロンボーンがものすごく上手いことを知ってたので、水前寺清子の「みんなでヨイショ」(69年10月2日〜 木・21:00〜21:30)に、藤岡琢也コーナーを作ったんです。それから藤岡さんと付き合うようになって、「四つのお願い」のレギュラーになって貰ったんです。植木さんにゲストに出てもらって、「宗教の話をしてください」(笑)。最高におかしい。なぜか藤岡琢也に植木等が「大乗仏教は・・・」なんてやってるわけ。植木さん詳しくて当たり前なんだけど、これが一番面白かったね。バラエティ・ショーって、こう作るんだと思いましたね。

—藤岡琢也さんも、後期クレージー映画のレギュラーでした。

鴨下 「社長」シリーズや「クレージー映画」に、藤岡さん出てますけど、音楽ギャグじゃないからね。藤岡さん、楽器が強いっていうのは、あまり知られてなかったしね。その頃、僕はほとんど藤岡さんをバラエティに引っぱり出してました。だって、面白いんだもん。谷啓とトロンボーンのセッションをよく一緒にやってもらいました。良いトロンボーン持ってるんです。谷啓が「あれ高いんだよ!」って羨ましがってた。トロンボーンは上手くないけど、値段は高いって(笑) 二人で、三橋美智也の「星屑の町」をデュエットしてもらって、これがトロンボーンで弾くといいのよ(笑)

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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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