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 1955(昭和30)年、骨太で男っぽい三船敏郎と、知的と言われた鶴田浩二、二人のスター魅力を生かすために企画されたのが、黒澤明や谷口千吉、本多猪四郎の師匠にあたる山本嘉次郎監督の『男性NO,1』だった。作り手が意識したのはラウォール・ウォルシュがワーナーで撮っていたギャング映画。三船はダフ屋を取り締まる“ビュイックの健”、鶴田はダフ屋の顔役“ラッキョウの健”、このネーミングだけでも、それまでの義理人情の“やくざの世界”を描く活劇とは志が違うことがわかる。続いて同監督このコンビで作られたの『暗黒街』(1955年)が決め手となった。

 現実にはギャングはいない。ならばと、ハリウッドをお手本に、ギャングがいる世界を映画で作ってしまおう。それに拍車がかかったのが、俊才・岡本喜八の『暗黒街の顔役』(1959年)だった。製作は「ゴジラ映画」の田中友幸。最新の風俗であるロカビリー歌手・宝田明と、その兄で組織の顔役・鶴田浩二の兄弟を主軸に、遊戯感覚溢れるギャングの抗争が描かれる。

 続く『暗黒街の対決』(1960年)は、ハードボイルド作家ダシール・ハメットの「血の収穫」と同じアイデアの大藪春彦の原作、東宝特撮に貢献した関沢新一がシナリオを執筆。二つの組織が対立する地方都市にやってきた男・三船敏郎が、いずれの組織にも近づいて用心棒となり、双方を戦わせて自滅させる。という、翌年の黒澤明の『用心棒』にも通じるプロットに、あれこれ映画的アイデアを詰め込んで傑作となった。

 「暗黒街もの」は東宝のドル箱となり、加山雄三、佐藤允、中谷一郎、ミッキー・カーチスといった面々が、岡本喜八の『暗黒街の弾痕』(1961年)『顔役暁に死す』(1961年)で個性を発揮。やがて「暗黒街もの」は、岡本喜八のチーフ助監督だった福田純が引き継ぎ、『暗黒街撃滅命令』(1961年)、『暗黒街の牙』(1962年)が作られてゆく。

 この頃の東宝活劇は、同工異曲のものが多いが、岡本喜八の『地獄の響宴』(1961年)と、福田純の『血とダイヤモンド』(1964年)という、二本のハードボイルドの傑作も生み出している。

 さて、この頃、世界では007映画に始まるスパイ映画ブームが巻き起こっていて、東宝アクションも“ギャング”から“スパイ”へとシフトされていく。それが、三船、加山と共に東宝アクションの顔だった三橋達也が、パリに本部がある国際秘密警察のエージェント・北見次郎を演じた『国際秘密警察 指令第8号』(1963年・杉江敏男)だった。1963年から67年にかけて5作作られる人気シリーズとなる。最初はエスピオナージュを意識してのハードボイルドだったが、本家・ボンド映画に、コミカルで派手な要素が加わってくると、シリーズのテイストも変わってくる。

 特に、クレージー映画の坪島孝が演出した第3作『火薬の樽』(1964年)や、ベテラン谷口千吉による第4作『鍵の鍵』(1965年)は、モダンを通り越してファンタスティック! 三橋達也のキザなセリフ回しや、プレイボーイぶり、敵の陰謀のワンダーさが増してくる。

 『鍵の鍵』をベースに、『火薬の樽』のシーンを取り混ぜ、ウディ・アレンが再編集、『What’s Up,Tiger Lily?』(1966年)としてアレンの監督デビュー作となった。こちらは「スパイ・スプーフ」のパロディとして、北見次郎=フィル・モスコウィッツ、若林映子=スキヤキ、浜美枝=テリヤキという役名となり、アレンがセリフを書き換えた吹替え版。

 谷口千吉がメガホンを撮った最終第5作『絶対絶命』(1967年)は、北見の相棒役で『怪獣大戦争』(1965年)でおなじみ、“ハリウッドの魅力”ニック・アダムスが、国際秘密警察本部から派遣されたエージェント、ジョン・カーターを好演。北見とジョンの相棒感覚は、ボブ・ホープとビング・クロスビーの「珍道中」もかくやのエスカレートぶりが楽しい。宝田明の「100発100中」二部作と並ぶ東宝スパイアクションの時代を作った。


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