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晩秋の「さぎりの里付近にあるコスモス畑」(三重県南牟婁郡御浜町)【紀伊半島を知る、伝える】

(生まれ育った土地を“故郷”と呼ぶのなら、居を構え、もっとも長く暮らした土地は“地元”と呼ぶのだろう)

令和5年(2023)11月29日、父の三回忌法要を終えたあと、三重県の紀北町(旧・海山町)と尾鷲市にまたがる「便石山」(599m)の「象の背」に立ち、そんなことを思った。

父にとっては紀北町が故郷で、尾鷲市が地元にあたる。

左:紀北町/右:尾鷲市

父の死を機に自らのルーツを意識するようになり、45歳を前にセカンドキャリアについて考えるようになった。

そして「もし将来、紀伊半島に活動拠点を移すとしたら、今の僕がすべきことは何か?」を考えたとき、馴染みのある紀伊半島の東側、三重県の紀北町・尾鷲市・熊野市・御浜町・紀宝町の5市町で構成される「東紀州」も含め、紀伊半島について知らないことが多いことに気がついた。

まずは知ることから始める――何事においても基本だ。

故郷を離れて生活しながらも、情報を収集すべく、令和6年(2024)1月、Facebookの【紀伊半島の魅力を伝えよう】というグループに参加した。

「東紀州」を中心に、同グループに投稿した「紀伊半島」に関する情報や画像を、その時季に合わせて紹介していく。

【紀伊半島を知る、伝える】
晩秋の「さぎりの里付近にあるコスモス畑」

【撮影】:水谷靖彦

三重県南牟婁郡御浜町は尾呂志地区の農作物直売所「さぎりの里」の近くにある、「コスモス畑」が見頃だという。

コスモスの原産はメキシコ。
18世紀の終わり、1789年にスペインから派遣された植物調査隊のビセンテ・セルバンテスが、その種子をマドリッド王立植物園長であるアントニオ・ホセ・カバニエス神父に送り、これを神父が栽培して「コスモス・ビピンナトス(Cosmos bipinnatus)」という学名をつけたとされる。8枚の花弁が整然と並ぶ様子から、ギリシャ語で「宇宙、秩序、調和」を意味する「コスモス(Cosmos)」と名付けた、とも。

この「コスモス」が、いつ、どこから日本にもたらされたのか?については、幕末か明治に、オランダかイタリアから、など諸説あるものの、本格的に広がったのは明治42年(1909)に文部省が全国の小学校に栽培法を付して配布してからだという。

余談ながら“「さぎりの里」の名前の由来は、御浜町と熊野市紀和町の境にある「風伝峠」から流れる壮大な「朝霧(風伝おろし)」にある”とは見かけるけれど、「朝霧」を「さぎり」と読むのは、この地域の方言(訛り)だろうか、それとも「風伝おろし」が秋に現れる霧=「狭霧(さぎり)」だからだろうか。

いずれにせよ、「風伝おろし」は秋から冬にかけての、朝の風物詩とされる。
機会があれば、帰省のおりに早起きして訪れたい。 

令和6年(2024)11月11日のFacebookより

【撮影】
水谷靖彦

【撮影日】
令和6年(2024)11月10日

【所在地】
三重県南牟婁郡御浜町阿田和888

【メモ/雑学】
・昭和31年( 1956)に市木村と尾呂志村が合併して「市木尾呂志村」となり、昭和33年に阿田和町、神志山村と合併して「御浜町」が成立した。
・「御浜町」の町名は吉野熊野国立公園に属する海岸「七里御浜」に由来するという。
・温暖な気候を利用した蜜柑栽培が盛んで、「年中みかんがとれる町」を謳っている。

↓↓↓「風伝おろし」についてはコチラをどうぞ↓↓↓

以上


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水谷俊樹
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