見出し画像

相模湯河原「土肥椙山」と源頼朝【山と景色と歴史の話】

いにしえより地域の人々を魅了し、心の拠り所となってきた英雄がいる。

彼らの波乱に満ちた生涯は人々の口から口へ、様々な伝説・伝承に彩られながら語り継がれてきた。

神奈川県の西端・湯河原周辺に残る“源頼朝伝説”を紹介する。


「相模国」の誕生

未開の地とみられていた東国が、ヤマト王権の支配下に組み込まれたのは5世紀頃だといわれている。

当時の神奈川県域は、県央部の相武国、県西部の師長国、県東部の武蔵国などの国に分かれていた。

その後、「大化改新」によって誕生した古代日本の律令国家は、それまでの地域支配制度「国造制」を廃止し、国郡里制を施行する。結果、県東部(横浜・川崎)は武蔵国の一部に、県央部と県西部が合併して「相模国」が誕生。従来の地方豪族は足上、足下、余綾、大住、愛甲、高座、鎌倉、御浦の8つに分けられた郡の郡司となり、班田制により口分田を支給された公民は「租・庸・調」という税や労役の義務を負った。

「相模国」の国府は、はじめ高座郡(海老名市周辺)に置かれ、のち余綾郡(大磯市周辺)、大住郡(平塚市周辺)へ移ったといわれている。

そして今回の舞台は「相模国」8郡の西端にあたる足下郡(湯河原町周辺)だ。

源氏の鎌倉入り

律令制度の経済的基盤だった班田制は、平安時代中期に有力貴族や大寺院が荘園を形成したことで崩れていく。

班田制の崩壊と荘園制の発達は、新しい武士階級の台頭を促した。
「相模国」では平家の流れを汲む大庭氏・梶原氏・土肥氏・三浦氏・和田氏のほか、平将門の乱(939年)の鎮定に活躍した藤原秀郷の子孫である大友氏・山内首藤氏などが知られている。

平安後期、房州(上総国、下総国、安房国)で起こった「平忠常の乱」(1030年)を平定するため、朝廷から源頼信・頼義が派遣された。鎮圧後、頼信は相模守に任ぜられ、のち康平6年(1063)に頼義が石清水八幡宮を由比郷(鎌倉)に勧請する。

以来、鎌倉は源氏のゆかりの地となり、ここを本拠に東国武士団の棟梁としての地位を固めていったが、頼義の祖孫・義朝が「平治の乱」(1159年)で平清盛に敗れたことで、「相模国」では平家方と結びついた大庭景親が飛躍的に勢力を拡大した。

「驕る平家は久しからず」

8年後、平清盛は武士として初めて太政大臣に任じられ、平家一門は栄華の頂点を極める。

もっとも頂を極めたあとは、下りるしかない。次第に平家の専横・横暴が目立つようになり、 諸国の武士・農民の不満が高まった。

そんな空気を読み取って、治承四年(1180)4月、以仁王が挙兵する。以仁王は後白河法皇の第2皇子(第3皇子とも)。清盛の孫・安徳が践祚したことで皇位につく可能性が失われた彼は、平家打倒と皇位奪還を計画し、全国各地で雌伏する源氏一門に挙兵を促す令旨を放った。

以仁王の令旨は、義朝の子・頼朝にももたらされる。
鎌倉幕府の正史ともいわれる『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180)4月27日、伊豆の北条時政の館にいる頼朝に伝えたとあった。
ときに頼朝34歳、「平治の乱」後に伊豆へ流されて20年以上が経過している。この間、彼は時政の娘・政子と結婚していた。

頼朝、決死の脱出劇

立つか、止めるか、周囲は割れた。

やがて平家方が伊豆へ軍を差し向けたとの情報が入り、ついに頼朝は挙兵を決意する。

治承4年(1180)8月17日、頼朝は300騎を率いて伊豆の目代・山木兼隆を討ったが、三浦氏と合流するために三浦半島に向かう途中、平家方の大庭景親が待ち受けていた。その数3000騎。

8月23日、頼朝は足下郡(足柄下郡)の石橋山に陣を構えたものの、しょせんは多勢に無勢、背後に聳える険阻な土肥椙山の山中へ逃げ込んだ。

――まもなく平家方の山狩りが始まる。

頼朝の脱出劇は苦難の連続で、ある池で喉を潤したとき、窶れ果てた自らの姿に絶望して自害を決意するほどだったという。

その後、頼朝は居場所を悟られぬよう、あえて味方を散り散りにさせ、自らは足下郡の土肥郷に本拠を置く土肥実平とともに大きな伏木の空ろや岩窟を転々とした。

やがて平家方の追手が迫ってくる。そして、ついにある岩窟に隠れていたところを追手のひとりに見つかってしまった。

万事休すと思われた瞬間、その追手は何を思ったか、弓を岩窟の中に入れてかき回すと、「弓に蜘蛛の糸が引っ掛かった。この中に人はいない」と引き上げた。このとき頼朝の窮地を見逃しのは大庭景親配下の梶原景時だといわれている。

頼朝を再起に導いた土肥実平

平家方の執拗な山狩りはつづいた。

そんななか、椙山山中から麓の土肥郷に押し寄せた平家方の軍が実平の館や郷内の家々を焼き払うのが見えた。

その光景を目の当たりにした実平は落胆することもなく、「土肥ニ三ノ光アリ第一ノ光ハ八幡大菩薩ノ君ヲ守奉リ給御光也、次ノ光ハ君御繁昌アテ一天四海ヲ耀シ給ワムスル御光也、次ノ光ハ実平ガ君ノ御恩ニ依テ放光セムトスル」と頼朝を鼓舞したという。

やがて夜陰に紛れて山を下りた頼朝は、わずかな手勢とともに実平の手配した小船に乗って真鶴岬から安房へ向かう。

ようやく安房で三浦氏と合流した彼は、千葉常胤や上総広常らを従え房総半島を北上した。『吾妻鏡』によると、このとき広常は2万騎を率いていたといい、この情勢をみた東国武士団も続々と頼朝に帰順の意を表した。

そして10月7日、ついに頼朝は源氏ゆかりの地・鎌倉へ入る。

石橋山の敗戦からわずか1ヵ月半――奇跡的な再起を果たした彼は、さらに勢力を拡大して平家を討ち滅ぼし、ついには武家を中心とする新しい政治体制を確立した。

近年、神奈川県の湯河原町では、郷土の英雄・土肥実平の導きにより頼朝が辿ったとされる道のりを「鎌倉幕府開運街道」と称して、いくつかハイキングコースを設定している。

「頼朝、決死の脱出劇」に思いを馳せながら、ゆっくり散策してみてはいかがか。(了)

【画像】
国立国会図書館デジタルコレクション

いいなと思ったら応援しよう!

水谷俊樹
皆様からいただいたサポートは、取材や資料・史料購入など、執筆活動の費用として使わせていただきます。