ALC物語 第1章 ALC誕生前 ~ 第7章 マレーシアでのレース開催
第1章 ALC誕生前
1・ 代表者・茶木寿夫の歩み
物事は、始まる前の前段階がある。まずはそこから入りたい。
著者でありALCの代表者である私こと茶木寿夫は、1949年に富山県で産まれた。自動車業界にとっぷり浸かっている私だが、そうなるキッカケは父・重三にあった。
日本の交通は、江戸の駕籠(かご)、明治の人力車、大正の自転車、昭和の自動車と移り変わるが、日本に未だ自動車が無いに等しい1905年(明治38年)に父は生まれた。
そして1930年(昭和5年)に父・重三は富山県で5人目の免許取得者になった。トヨタ自動車の創業は1933年(昭和8年)だから、その時まだトヨタ自動車は世に存在しなかった。
父は言った「当時の自動車免許は、今でいえば飛行機の免許を持っているのに匹敵するかもしれない」。そのくらい自動車免許所持者は特別な存在だった。
母によれば、父は「これからは機械の時代だ」と言って、新しいものへの挑戦や、前に向いて進む気概は、相当にあったらしい。
戦争がはじまるとガソリン不足から車は木炭車になったので、父は木炭車の免許も所持していた。富山県警本部が運転免許の歴史展示会をしたいので、ぜひ木炭車の免許証を貸して欲しいと言ってきたこともあった。そんな父を私は誇りに思った。
私が小学生の半ばまで、父は馬に鋤(すき)を引かせ田を耕していた。しかし機械や時代の先に目を向ける父は、地域でいち早く耕運機を購入した。それで私は小学校高学年になると、その耕運機を使いうようになっていた。
それはそれで面白いのだが、単純作業の繰り返しにはあまり興味が湧(わ)かない。学校へ行っても画一的でただ教科書どおりの授業にも興味が湧かない。
その反面、あるキッカケから始めたスキーに、「これは面白い」と俄然興味が湧いた。
富山には北アルプス立山連峰があり、雪も多いからスキー環境は良い。農繁期は春と秋だから、冬は農作業を手伝うことはない。つまり暇。
だから冬は学校へ行く以外はスキーに明け暮れた。
そして高校生の頃は、北アルプス立山の山小屋「房治荘」でアルバイトをしながら7月、8月でも残雪でスキーをしていた。
そこで考えたのが「スキーで飯が喰えないか」だった。立山は11月中旬には雪が降り始める。だから日本で最初に初滑りができる場として有名だ。すると当然早稲田や中央、明治といった各大学のスキー部が初滑り合宿に入ってくる。
その彼ら体力と技術をみて、「こりゃ、スキーで飯を喰うのは無理だ」と思った。一流選手の太腿は私の胴回りぐらいあり、たくましい。それに比べ私ときたらカモシカの足のように細い。技術的にも彼らは一段も二段も上の次元だった。今から私がいくら頑張っても無理なのは明々白々。でも生まれたからにはスキーでは無理でも何かで日本一になってみたいとも思った。
2・ ラリーに魅せられて
それから暫くしたあるとき、「茶木君、君は車が好きそうだが、ラリーって知っているかい?」と、声を掛けられた。
「はっ? ラリーですか・・・いえ知りません」
声の主は松井肇・横浜ゴム名古屋支店の人だった。背が高く都会的な雰囲気を漂わせるカッコいい人だった。その人に惹かれた。そのカッコいい人が言うのだから何か魅力があるのだろう・・・そう思った。
これが、モータースポーツ(MS)への扉の幕開けだった。
この一言から、モータースポーツに興味を持った。
本屋に走って三菱ラリーチームリーダーである木全巌(きまたいわお)著「ラリーへのいざない」を注文した。
本を何度も読み返し、「これは面白そうだ! そして三菱はかっこいい!」 と思った。とにかく参加してみようと思い、同じ大沢野町に住む知人で、私から見て大兄貴的な砺波さんに、「砺波さんの三菱コルトでラリーに出場してみませんか。砺波さんは運転して下さい。私がナビをやりますから、私の指示通りに走って下さい」と提案した。
「よっしゃ、出てみよう」となり出場。スタート会場へ行くと周りは全部強そうにみえる。だが何度か出るうちに、これは“自分を信じてやれば勝てる”との確信が湧いた。成績も上位だし、優勝したこともあった。これなら、“ラリー界で一旗揚げることが出来るかもしれない”、そう思った。
3・ ラリーを職業に
すると当然「日本の頂点はどのラリーか」となる。それは日本モータリストクラブ(JMC)が主催する日本アルペンラリーであった。JMCの運営母体は親会社にあたる自動車業界紙大手・日刊自動車新聞社であった。この新聞社はモーターリゼーションの発展に拍車をかけようと、ラリーを開催していたのである。
当時の日本アルペンラリーには、三菱をはじめ、プリンス、日産、トヨタ、いすゞなどのファクトリーチームやディラーチームがこぞって参加してきていた。
私は同じ大沢野町に住む名ドライバー永瀬紀好、そして佐伯治と組み、1971年の第13回大会に出場。参加115台中、トータル減点21点で、総合成績は15位に入った。
優勝は三菱ファクトリーチの片川敬二郎、片川哲明、伊藤哲郎のギャランだった。減点はなんと驚異の2点。これは4日間で2,000キロ走破して誤差2分以内で走り切ったことを意味した。
翌14回大会に、私は主催者に「最後尾を走る管理車をさせて欲しい」と頼み込み、モータースポーツ界の大御所“古我信生”大先生を乗せて管理車として2,000キロを走った。
世の中にこんな面白いことがあるのなら、いっそそれを仕事にしたい! と思った私は、ラリー界の神様の異名をとるJMCの澁谷道尚氏に「私を、社員にして欲しい」と頼み込んだ。
すると澁谷氏は「こんな苦労は私一人で沢山だ」と断られた。だが内心「世の中には、私のようなバカが一人ぐらいいたっていいじゃないか」と思っていたから、誠心誠意頼み込んだ。
結果として親会社である新聞社の臨時試験を受け、新聞社に入社させてもらい、JMCへ出向した。その後3年間は、毎日のように全国の山道を走り回るのであった。
だが、第17回大会のとき山形県で死亡事故が起き、翌年の1976年の第18回大会をもって終了となり、JMCは閉鎖となった。
私は一旦新聞社に戻った。しばらくして総務部長から「仙台支局に行かないか」と打診された。それも悪くないが、「私は記事を書くことに関心はあるが、新聞記者になりたい一念で新聞社に入った訳ではない。モータースポーツをやりたくて新聞社に入った。だから納得できるまでやってみたい」という気持ちはあった。
一方年齢も考えるとモータースポーツはいつまでも出来るものでは無いだろうとの思いもあった。
さてどうしたものかと考えていたところ、マツダスポーツカークラブ(MSCC)の中村雅行会長から声が掛かった。「私(中村)は消毒会社の役員をしているが、今度独立する。ついてはわが社に来ないか」との誘いを受けた。いつかは自分で事業を起こしたいとも思っていたから、消毒業はあまり乗り気にはなれなかったが、事業の第一歩の布石と考え、新聞社を退職し中村氏の会社へいくことにした。
だが、気の乗らない仕事はどんなに自分に言い聞かせてもやはり無理だ。それで半年ほどしたある日、意を決して中村氏に「やり残したラリーの想いがあり、もう一度やってみたい」と打ち明けた。
すると「分かった。ではうちの事務所に君の机と戸棚を一個置かせてあげる。事務所料は1万円。期間上限は1年。電話は自分で引きなさい。その代わり消毒の仕事の会社の電話があったら対応すること、消毒の仕事で人手がいる時は手伝うことが条件だ。」と言われた。もちろん異存はないので、すぐに「それでお願いします」となった。
これがオートライフクラブ(ALC)誕生へと繋がるのである。
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