車にまつわるエピソード03 ブルーバード510
今から57年前の1960年代後半、日産はアフリカ大陸で開催されたサファリーラリーに参加し、盛んにTV等で宣伝を繰り返していた。まずは2代目ブルーバード410型が5位入賞、それに続く3代目510型が総合優勝。
そんな日産ブルーバードからは、力強さ、逞しさ、カッコ良さが全身に伝わって来た。
当時、日産のブルーバードとトヨタのコロナは、同クラスの車としてライバル関係にあり、マスコミからはBC戦争と呼ばれ、ユーザーからはその性能競争に感心が集まっていた。
コロナは都会的雰囲気のある「お坊ちゃま車」で華奢(きゃしゃ)な感じがとこかにあるが、ブルーバードにはそんな感じはなく、力強さがみなぎっていた。
当時は国道と言えども一歩郊外に出ると砂利道で道路事情は悪かった。そんな時代だから悪路のサファリで活躍するブルーバードをみて、心は大いにブルーバードに惹かれた。
当時、自動車メーカー各社は、魅力的な車を次々に世に出し、国民に夢を与えてくれた。マツダはコスモロータリー、トヨタはトヨタ2000GTやトヨタスポーツ800、ホンダはオープンカーのS600やS800、いすゞはベレットGT、プリンス(日産)はスカイライン2000GT等々。
この中でも格段に魅力を感じたのはスカイライン2000GTだが、これは雲の上の車で、指をくわえてみているしかなかった。
でもブルーバードなら車格もスカGよりも下だし、大きさも手頃だから、逆立ちすれば何とか手に入るかもしれないと夢を見た。ちょっと大袈裟な言い方だが、とにかく人生でブルーバード510(以後ブル510)に乗り、いつかはスカGに乗れれば、死んでもいいとさえ思った。
私にとって最初の車はコンテッサ1300セダンだったが、2台目の車として、2代目ブルーバード410型のSSの中古車が手に入りそうになった。だがモタモタしている間に他の人が買いガックリ。
ところが離れるもの有れば、来るもの有りで、なんと3代目ブルーバード510型のSSS(スーパー・スポーツ・セダンの略)の新車同様の中古車があるという。
それはアフリカのサファリーラリーで活躍するのと同じ型の車だ。それを買った時は天にも昇る思いだった。
サファリーラリーのラリー仕様(写真上)の真似をして、ボンネットをつや消し黒塗りにしたり、フォグランプをつけたり、左右のフェンダーにビニールテープで名前を入れたりして、悦に入っていた。あるときその車で富山の駅前に姉を迎えに行ったら、「あんたの車は名前が書いてあるから、すぐわかる」と言われ、ちょっと恥ずかしい気もしたが。
気持ちはラリーにのめり込んでいたので、週末の夜には仲間たちとラリーコース的な山間の道を走り込んでいた。
吉幾三ではないが、運転は「おらが村では俺が一番」などと勝手に思っていた。
そうこうしているうちに、当時日本のラリーの頂点である第12回日本アルペンラリーが、我が郷里の富山をコースに組み込んであるという情報が入った。私はあらゆる情報を収集した。すると富山県東部に位置する新潟の糸魚川から、富山を経て、富山県南部方面から岐阜に入り、石川県湯涌温泉の中継地点に入るコース概要とのことだった。
だが、正確に何処を通るかは分からない。私は地図を広げ、頭をフル回転させて通過コースを推測した。時は1970年9月だった。
日本アルペンラリーでは、1号車の約6時間前に先々行車が走り、2時間前に先行車としてコース設定者の渋谷道尚氏がスカイライン2000GTで走ることを私は知っていた。そこで私は推測したコースの国道41号脇で、ブル510に乗り、待ち伏せした。
「来た!」。推測は的中した。そして私はスカGを追尾した。スカGの渋谷さんも直ぐに私の追尾に気が付いたらしい。舗装された41号線の笹津から、神通川左岸を経ておわら風の盆で有名な八尾町に入った。
途中、ぬかるみ箇所があったがスカGは難なく抜けていく。こっちは尻を振りながらやっとこさ通過した。その時「あっ、前を行くスカGにはノンスリップ・デフ」がついているのだと悟った。当時ノンスリップデフは5万円ほどして、とても買えなかった。それにしても地元の我々が全く知らない道をどんどん山奥に入っていく。えっ、この先に岐阜にぬける道なんて本当にあるのだろうか?
その道は楢(なら)峠という廃道のような峠道だった。地元の我々も知らない道を、何で東京の人が知っているだろうかと不思議でしょうが無かった。
雲上のような存在のスカGで、ラリーで全国の峠道を走り、それを仕事に出来るなんて、そんな仕事が出来るなら是非やってみたいと夢のような思いは膨らんだ。
愛車ブル510も、エンジンブーリーが破損したりして、手放した。時は流れ、ラリーカーもブルからギャラン全盛に移行しつつあるときだった。
ブルで走った芸術的な写真は、1枚あったが、今は行方不明なのが残念至極である。でも心に多くの思い出を残してくれたブルよ、有難うという気持ちで一杯だ。
結局、数年後私は澁谷さんの部下となり、そのスカGに乗って、全国を走り回ることになるのであった。