「続・窓際のトットちゃん」(黒柳徹子)から学んだ4つのこと
楽しさを綴った前作、大変さを綴った続編
■本編に当たる前作「窓際のトットちゃん」は、個性豊かな問題児であるがゆえに小学1年で退学したトットちゃんが、新たに入ったトモエ学園での楽しい日々を綴ったものである。
黒柳徹子さんが、これを書こうと思ったのは、自由な教育を実践してきた小林宗作校長のことを書き残したい一心からだった。
物語は、戦争での空襲が激しくなり、青森へ疎開するところで終わっている。
(前作のことは、下記を参照下さい)
■続編となる「続・窓際のトットちゃん」は、それからの疎開中の大変やことや、戦後のことを綴ったものである。
42年後の今、その続編を描こうと思った要因の一つはウクライナでの戦争だった。
(ウクライナの戦争のことは、本には書いてないが、ご本人がTVで言及)
続編から学んだ4つのこと
私は両作を読んだ。そしてこの続編から、私は4つのことを学んだ
■一つ目は、個性は、見方一つで表目にも裏目にも出ること
★小学1年で退学になったのは、個性が裏目にでたものだ。
型にはめたい学校側は、協調性が無く、皆に迷惑をかけるからという理由で、退学させた。
だが、次に入ったトモエ学園の小林宗作校長先生は、彼女の個性をみて「君は、本当は、いい子なんだよ」と言ってくれた。その言葉から、彼女はすくすくと育っていった。
★戦後、NHKに入るとき、そして入ってからもその個性は、ある時から表目にでた。
多数の応募者の中から、成績が最後尾に近い彼女が採用されたのは、その個性ゆえのことだった。
しかしトントン拍子にはいかなかった。NHKに入ってからも、ある練習中に「君はもう帰っていいよ。時給を払う伝票は書いておくから」と何度も言われ、ついには「あれ、来ちゃったの。帰っていいよ。伝票書いておくから」とまで言われた。時給は1時間59円だった。
ある時には、「君の話し方、日本語、明日までに全部なおしてこい」とまで言われた。
トットちゃんは、すっかり自信を無くした。
でも、新番組を立ち上げる時、劇作家の飯沢先生が彼女の個性を見つけ、彼女を抜擢した。
トットちゃんは、「いつものように、また降ろされたらどうしょう・・・」と思った。
だからトットちゃんは言った。
「私、日本語が変ですから直します。歌も下手だから勉強します。個性も引っ込めます。しゃべり方も、ちゃんとしますから・・・」
すると飯沢先生はニコニコしながら言った。
「直しちゃいけません。ちっともヘンじゃありません。良いですか、直すんじゃありません。そのままでいて下さい。それがあなたの個性ですから・・・大丈夫! 心配しないで」
その言葉が自信に繋がった。
それが契機となって、トットちゃんは、国民的人気者になっていく。
学校も、社会も、業界も、「規格外の個性は邪魔」であると、型にはめたがる。
個性は表目にも裏目にもでる。
私は、「トットちゃんの個性を認めた人」が凄いと思った。
ハスキーボイスの歌手・森進一さんが、あれだけのスターになったのも、その個性的な声だからこそのこと。彼の個性とトットちゃんの個性が重なってみえた。
■二つ目は、戦争の悲惨さ
受け入れ先がない中、わずかな接点に望みをつないで青森の田舎へ疎開するトットちゃん。
ぎゅうぎゅう詰めの列車は、トイレに行くことも出来ない。窓からお尻を出して用をたすトットちゃん。
何とか受け入れ先を見つけてもらい、リンゴ畑の中の作業小屋で生活をしていく。だが、大雨で川が氾濫し、小屋が水浸しになり、住めなくなってしまう。そしてトットちゃんの東京の家は空襲で丸焼けになってしまう。
物語は明るく書いてあるが、そんな状況を想像するだけで切なくなってしまう。戦争だけはごめん蒙(こうむ)りたい。
戦争を避け、国民に平穏と希望を与えるのが、政治家の仕事だろう!! と強く思った。
■三つ目は、お母さんの逞しさ
音楽の道を進んでいたお母さんは、裁縫も出来、多才だった。そして明るかった。
お父さんが戦争で出征のなか、3人の子供を連れて青森に疎開。
そして得た板張りのリンゴ作業小屋を改装して住めるようにした。農協にも働きにいった。行商にもいった。地元の祝い事では歌も歌い、やんやの喝采を浴びた。そして、青森と東京往復の仲買人もやった。
そして女手で一つで、丸焼けになった東京の家を、およそ2年で新築した。
適応力と柔軟性があり、逞しくて、美しくて、優しいお母さん。
そしてお母さんは、トットちゃんの個性を潰さなかった。トットちゃんの個性に合うことに対し、背中を押しをしてくれた。
トットちゃんのお母さんは、本当に素晴らしくて逞しい人だと思った。
■4つ目は、お父さんの素晴らしさ
トットちゃんのパパこと黒柳守綱さんは名ヴァイオリン奏者で、戦前は新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターであった。
戦争になると食糧難になった。そんな中、軍歌を演奏してくれと頼まれた。軍歌を演奏すれば、食料も手に入る。でもパパは如何なるところからの依頼も「軍歌はやらない」と断わり続けた。
1944年に満州へ出征し、敗戦後にシベリアに数年間抑留された。強制労働させられ、労働環境もひどい中、食事は生きるのがやっとのものでしかなかった。
そんな中、ある日、ヴァイオリン名手であることを知ったソ連軍の高官から直々に呼ばれて「今後、君には、日本人収容所を慰問して、演奏してもらいたい」と告げられ、ヴァイオリンを与えられた。
捕虜たちのあいだから、「日本の歌が聴きたい」という強い希望が起きたからだそうだ。
パパは、音楽好きの戦友を募って慰問音楽団を作り、幾つか収容所に慰問に回った。
戦中には一切軍歌を演奏しなかったパパだが、この時はリクエストに応え、軍歌も一生懸命に演奏した。
パパの知らない曲だった「丘を越えて」とか「東京音頭」などは、詳しい人に何回か歌ってもらい、採譜して譜面を作った。そして演奏した。
零下20度の極寒の中で、いつ日本に帰れるか分からない捕虜の人達の心を、この演奏がどれほど癒してくれたかと思うと、今こう書いている私の目にも涙がでてくる。
私は思う。
戦中に軍歌を演奏すれば、それは若者を戦場に駆り立てるものだ。だから演奏しなかった。
だが戦後ならば、軍歌を演奏しても戦場に駆り立てることは無い。
慰問であるから捕虜の人達の心に寄り添い、軍歌でも何でも可能な限り演奏したのであろう。
パパのその一貫したポリシーに、ただただ頭が下がる思いがした。
■ そして思う。
この「続・窓際のトットちゃん」と併せて、前作「窓際のトットちゃん」も是非読んで欲しいと思う。
前作の「窓際のトットちゃん」は、中古本でも買えるし、図書館にもあると思う。地元の図書館に無ければ、リクエストすると、他の図書館から取り寄せて貰える。
「窓際のトットちゃん」が世界中で愛読され、ギネスブックにも乗った理由を、全身で感じた。
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