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ジョン万次郎と咸臨丸に学ぶこと

私はかねがね「免許と実力は別」と思っている。
だから講習会等で機会あるごとに、そのことを伝えてきた。そうしないと危ないからである。

私は船も操船する。飛行機も操縦する。自動車の運転もする。
自動車はラリーコース設定で全国の山岳部を走り、国際ラリーにも出場した。
だから、自然界では自分の能力が、生死を分けることを身に沁みて感じている。

そして最近、ジョン万次郎が咸臨丸に乗りアメリカまで行った記述を再度読んで、ますますその意を強くした。今回は「知識、経験、実力」が如何に大事であるかについて記してみたい。


単行本 ジョン万次郎 (あかね書房刊)
簡潔に書いてあるので、未読の方は一読をお勧めしたい。

1841年、ジョン万次郎14歳のとき、土佐の高知からサバ漁に出て漂流。無人島の鳥島で143日間、雨水や海草、海鳥などを食して生き永らえた。

幸い通りかかったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出され、九死に一生を得た。
そしてホイットフィールド船長に気に入られ、アメリカで英語、数学はもとより、測量、航海術、造船技術などを学び、現地の学校を首席で卒業した。彼は、ここで知識を身に着けた。

その後、別のデービス船長に誘われ、フランクリン号に航海士として乗り組み、24人のクルーとともにアメリカ東部から大西洋を南下。アフリカの喜望峰を回り、3年4カ月に亘り、文字通り七つの海を駆け巡った。この航海で経験と技術を身に着けた。

デービス船長が航海途中に精神を病んだので、乗組員は船長をフィリピンのマニラの病院へ入れた。新船長を選ぶとき、ジョン万次郎も船長候補に選ばれ、決選投票となりかけたが、彼は辞退し、副船長になった。船は乗組員のチームワークが大切だということを十分知っていたからである。

その後日本に帰った万次郎は、いろいろな所で指導教育をしていくのだが、ある時、通訳として咸臨丸でアメリカに行って欲しいとの要請を受けた。

さて肝心のところは、ここからだ。
蒸気帆船の咸臨丸はオランダで建造された船だ。これに勝海舟を館長にして、アメリカの軍人11名、ジョン万次郎、クルーなど約100人が乗り込んだ。(資料により90人とも100人以上ともある) 
「日本の軍艦(咸臨丸)に外国人を載せるなど、日本の恥だ」と、日本の海軍士官たちは、口々にそうわめきちらした。

ところが、1960年2月10日に東京の品川を出航した咸臨丸は、すぐに荒波にもまれた。この時日本人乗組員は、万次郎を除いた全員が、立つことも出来ない状態でただオロオロするばかりで何の役にも立たない。

こうなるともう通訳どころではない。万次郎は自らマストに上がり、アメリカ兵とともに、必死に船を守った。だが航海は何十日と続く。万次郎もアメリカ兵も不眠不休で働き、疲労困憊した。

そこでアメリカ兵から、日本の士官たちにも「働いて欲しい」と言われたので、彼らの部屋へ行った。ところがその士官たちは寝転がって煙草を吸ったり、酒を飲んで酔っ払っていた。  

彼らは漁師上がりの万次郎を良く思っていなかった。そして「何しに来た万次郎。アメリカかぶれのお前なんかに命令されてたまるか!」と言い放った。
すると万次郎は「アメリカ人が寝る間も惜しんではたらいているのに、あなた達日本の武士は、そんなに恥知らずなのですか!」と返した。

それでも働こうとはせず、「お前なんかマストに逆さ吊りにしてやる」と息巻く始末。日本の乗組員はマストに登る訓練もしておらず、その勇気も無かった。

航海は37日かかったが、船酔いで館長の責務を果たせない勝は、途中から「後のことは一切任せるのでよろしく頼む」と万次郎に言った。この時点で事実上の館長は万次郎に移った。
さらにこの船は最新の蒸気船であるにもかかわらず、燃料の石炭を3日分しか積んでいなかった。
そして27枚ある帆を操る練習も全くせずに乗り込むなんて海を甘く見過ぎている。もし11人のアメリカ海軍軍人が乗り込まなかったら、とっくに船は沈んでいただろう。

船は「階級」では動かない。沈むだけである。
自然相手に、人間社会の階級なんて何の役に持たたない。

「知識、経験、実力」が如何に大切であるかを強く再認識した。

#ジョン万次郎 #咸臨丸 #航海  


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