北海道滞在記 エピソード7: 二世代に亘る交流。嬉しき哉、焼肉パーティへのお誘い
嬉しきお誘い
北海道へ行く約1ヵ月前の今年7月に、「北海道滞在中に我が家で行う焼肉パーティにきませんか」との嬉しいお誘いを受けた。
お誘いの主は永瀬和樹さんで、彼の自宅は北海道空知地方に位置する新十津川町にある。
パーティは8月14日と決まった。
彼と私は、共に富山の生まれである。そして親子ほど歳の差がある。
その二人がなぜ、北海道で・・・となるが、ラリーとスキーが、親子二代にわたる交流への橋渡となった。
今回は、その嬉しき2世代に亘る交流のことを書いてみたい。
二人の接点
私が彼(永瀬和樹さん)と出会ったのは、今から50余年前で、彼が未だ幼少の頃だった。
私は20歳の頃、ラリーに夢中になっていた。
その当時、同じ富山の大沢野町に住む永瀬紀好さんと組み、紀好さんがドライバー、私がナビゲーターとして、当時日本のラリーの頂点だった日本アルペンラリー等に参加していた。
永瀬さんの家と私の家は、車で10分位と近い。それで時々永瀬さんの家に立ち寄った。その時、両親は「カズキー カズキ―」とよく息子さんのことを呼んでいた。
だから、紀好さんの息子さんが和樹さんである。
お父さんの永瀬紀好さんは、二輪のモトクロスもされていたようで、そんな経験も相まって4輪の運転も抜群に上手かった。だから、霧の山岳路を走っても怖いと思ったことは一度もなかった。
その後、私は日刊自動車新聞社に入り、ラリーコース設定を職業にしたので、20歳前半で東京に住むようになった。だから、永瀬さんと会う機会も少なくなって行った。
一方、息子さんの和樹さんは、スキーに興味を持たれ、成人して自衛隊に入隊されるが、スキーができるということで、北海道を希望され、北海道の新十津川町に居を構えることとなった。
和樹さんは、お父さんから私の名前をよく聞いていたらしく、私の名前を覚えてくれた。
一方の私も、「カズキ―」という呼び声がしっかり頭に入っていた。
だから、当時はお互いに「名前が頭に残っている」だけの、言わば細い接点だった。
普通ならそれで終わりとなるのだろうが、世の中面白もので、長い年月と遠く場所を変えて、ラリーとスキーで繋がったのである。
繋がりは一冊の本から
1・繋がりは1冊の本からだった。私が2017年に「アルペンスキーに懸ける想いと情熱:斉藤博物語」を書いた。
主人公の斉藤博は、日本での全中、インターハイ、インカレ、全日本選手権、国体などでの優勝者を100人以上育て、さらには世界ジュニア選手権での優勝者や、ワールドカップや、世界選手権出場選手を20人以上育てた人物だ。
2・その本が出版されたことが北海道新聞に掲載された。その記事に「希望者へのプレゼント」のことも紹介もされた。
3・スキーが好きな永瀬和樹さんは、その記事を見た。その時、彼は文中にある「茶木」の名前にピンときた。「もしかしてその茶木という人は、むかし父と一緒にラリーをやっていたあの人ではないだろうか」
4・そしてプレゼント申し込みをして、本を、歌志内市のかもい岳スキー場に取りに行った。
永瀬さんの住む新十津川町と、歌志内市のかもい岳スキー場とは、車で30分位の距離だ。
受け取るとき、永瀬和樹さんが「筆者の茶木という人は、富山出身でラリーをしていた人ですか」と斉藤さんに訊いた。答えは勿論イエスだった。
5・そこで、繋がった。そのことを斉藤さんから聞いた私は、富山から遠く離れたこの北海道で、永瀬さんの息子さんと繋がったことにビックリし、不思議な縁を感じた。
スキーとラリーが橋渡しをしてくれたのである。
こうして、50余年の時を経て、昨年(2023年)8月に永瀬和樹さんと2世代に亘る交流が始まったのである。
親しみを感じる奈良県の十津川村と、北海道の新十津川町
私は何故か十津川という言葉に親しみを感じる。
■一つは、ラリーコース設定で、奈良県南部の十津川村に行ったことがあるからだ。
十津川村は、日本で一番面積の広い村で、その広さは琵琶湖や東京23区よりも広い。
山岳ラリーのコース設定を職業とする私は、秘境の十津川村に惹かれ、その村に入った。
秘境と言われるとおり村の96%が森林で、確かに山と山の間の渓谷にひっそりとたたずむ村である。当時、村に入って168号線をしばらく進んだところに日本一の長さを誇る「八瀬の吊り橋」があった。
その橋を見ながらハンドルを切る私の頭には、自然と春日八郎の「♪山の吊り橋ァ~ どなたが通る せがれ亡くした鉄砲打ちが・・・」の歌が巡った。
■二つ目は、TVでおなじみの西村京太郎の推理小説シリーズに出てくる主人公・十津川警部である。もちろん架空の人物であるが、この名前は、十津川村の名前に由来している。
原作者の西村京太郎が主人公の名前を考えていた際、たまたま見ていた日本地図で十津川村が目に留まったためという。
私が十津川省三警部の名を知るのは、私が同村を訪れた時よりずっと後だが、十津川村は訪れた地であり、秘境が印象深いことから、十津川警部にもなぜか親近感が湧くようになった。
だから、TVで十津川警部の名前を聞くたびに、私の頭は自動的に十津川村を思い出すのである。
■三つめは、新十津川村である。
若い頃、北海道周回ノンストップラリーのコース設定で北海道に入った。地図を見て山間の峠道を見るのが習性の私は、新十津川町の名前を目にした。
それで「奈良県の十津川村とどんな関係だろう。何か接点があるに違いない」と思った。
すると、確かに深い接点があることが分かった。
1889年(明治22年)8月に十津川村で十津川大水害が起きた。その被災民のうち2489人が離村して、北海道のアイヌ語で言うトック原野に入植し、新十津川村と称した。
その後、1957年に町制を施行して新十津川町となった。
したがって奈良県の十津川村は本家であり、新十津川町は分家のようなものである。
因みに、本家の十津川村から名前を得た十津川警部は、この新十津川町でも「札沼線の愛と死 新十津川町を行く」で活躍する。
蛇足だが、TVの「西村京太郎サスペンス 十津川警部シリーズ」で十津川警部を演じた俳優・渡瀬恒彦さんとは、1989年に映画「天と地の」の撮影で、カナダロケで一緒だった。
私は俳優ではないが、日本ホースチームの一員として3ヵ月間、その撮影現場に居た。だから渡瀬さんを身近な人と感じていた。
山の吊り橋を歌った春日八郎さんだが、彼の孫と私の息子は、小・中学校で一緒だった。
だからなお、距離感が縮まるのだろう。
人は、土地、人物など、間接直接を問わず、何か接点があると親近感が湧くものだなぁ~と改めて思う。
さて、奈良県の十津川村は山間の秘境だが、北海道の新十津川町は、石狩川や徳富川の流域にあり平野が広々を広がる平野である。
そんな親しみを感じる新十津川町にお邪魔出来たのも、永瀬和樹さんのお誘いのお陰である。
楽しきガーデン焼肉パーティ
新十津川町に入ると、一軒一軒の宅地が広々していて、ゆとりを感じた。
永瀬さんの家は、住宅地の中になるが敷地160坪とのことで広々としている。その家の前の広場でパーティは始まった。家の裏側には広大な農作物畑が広がっている。
真夏ではあるが、そよ吹く風が心地よい。
参加は、ホスト役の永瀬さんファミリーに加え、私、かもい岳の斉藤博さん、木村夫妻、そして全員と接点の深い片岸さん、その友である高校生の合計9名。
9名ともなると、焼き肉用の火を入れたコンロは、ドラム缶を半分に切ったもの大きなものだった。
永瀬さんの奥さんが、手際よく肉を焼いていく。
永瀬さんファミリーは、スキー、魚釣り、ラフロードバイク等のアウトドア派とは知っていたが、実は奥さんもラフロードバイクは好きで、競技にも参加されていると聞き、ビックリした。
さもありなん・・・庭には、日本製のバイクに加え、ラフロードバイクで有名な欧州オーストリア製の「KTM」ブランドのバイクもあった。
そしてなんと、そのKTMバイクは奥さん専用とのことだ。125CCのそのバイクで、奥さんがラフロードをジャンプもしながら疾走する姿を想像しただけで、凄い! と思った。
私も一応大型自動二輪の免許を持っているので、そのKTMバイクに跨らせてもらったが、跨るだけが精一杯で、このバイクでジャンプするなど想像もできなかった。
アウトドア派の永瀬さんファミリーと、集まった仲間に乾杯! (注:帰りの運転手はソフトドリンクで乾杯)
こうして、新十津川町の永瀬宅でのパーティが終わりに近づくころ、私はギターの弾き語りで、北海道だからとの思いから「知床旅情」を歌った。
数日後、彼からのメールに「ギターでの知床旅情に感動し、涙が出て来ました」と記されていた。上手いとは言い難い私のギターの弾き語りに、お世辞半分を差し引いても、ここまで言ってくれたのは永瀬さんが初めてであった。
二世代に亘る交流・・・、楽しい一日を作って頂き、永瀬さん有難う。感謝します。
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次回のエピソードに続く