北海道滞在記 エピソード12: 歌の文句に誘われ、初のエルムノッド(襟裳岬)へ
■襟裳岬まで行くか、それとも引き返すか
二風谷でアイヌ民族資料館を見終わった時は、すでに午後2時だった。
私と斉藤君は、共に頭の中で計算した。
この二風谷から襟裳岬までまだ約150㎞あり、約3時間かかる。すると襟裳岬に到着するのは午後5時になる。
まだ陽はあるから、到着するだけなら良いが、問題はその後だ。
襟裳岬に1時間居たとして、出発は午後6時。そこから本拠地の歌志内までの帰路は300㎞ある。二人で交代して運転し、一部高速道路を使っても帰着は午後10時半か、11時になってしまう。
何もないと言われる襟裳岬まで、それでも行くか、それとも引き返すか?
斉藤君は襟裳岬を数回訪れている。
だが、私は一度も行ったことが無い。
私は北海道の南の函館、北の宗谷岬、東の網走、知床、根室半島、釧路等など、北海道はほぼ行ったが、襟裳岬にだけは行ったことが無いから、一度は行って見たい気持ちが強い。
だが、若い時ならいざ知らず、75歳の年齢を考えると引き返した方が無難かなとも思う。
ここが思案のしどころだが、私はこの機会を逃したら、もう襟裳岬へ行くことはないだろうと思った。
すると、その気持ちを察したかのように、斉藤君が言った。
「よし、行こう。1時間交代で運転すれば、大丈夫だ!」
その一言で決まった。私は嬉しかった。
我々は、平取の二風谷から沙流川に沿って237号を南下。途中のセイコーマートでランチ用の弁当、菓子パン、ジュース等を買い込み、海沿いの街、日高町に出た。
斉藤君の愛車、スバルレガシーも快調だ。水平対向2,000㏄エンジンは心地よい音を立てて回り、我々は鼻歌交じりで、右手に太平洋を見ながら、一路南東へ進路を取って、ひたすら襟裳をめざした。
■エルムノッド:襟裳岬
えりも町の歌別川で、国道から別れ、さらに岬を目指した。ここからは海風に草がなびく草原で「何もない」ところだ。大自然の中にいる感じがする。人間なんてちっぽけな存在だと、改めて思う。
右手の海原は、夕陽に輝き美しい。
襟裳岬に着いたのは、午後5時だった。
森進一が歌うとおり、襟裳岬には何もない。あるのは「風と波」だけだ。それが良い。余計なものは無い方が良い。自然が厳しいほど、人と人の心の絆が深くなる。
ところでこの襟裳岬は、アイヌ語でエルムノッドという。エルム=ねずみ、ノッド=岬の意である。
このことは、前述のエピソード10で記した萱野茂氏の著書「アイヌ歳時記」知った。興味深かったので、概要をここに記してみたい。
アイヌが大地に地名をつける場合は、その地形を見てつける。では、襟裳岬とねずみが何の関係があるのか。それが大ありなのである。
アイヌは時によって、神と人間は、対等のものと考えていたように感じる。
(同書物からの引用概略)
昭和13年か14年頃、二風谷の萱野茂の家にはネズミが沢山いて、大切なものが齧られる事がしばしばあった。その時茂の父はアイヌ的な対応をした。
萱野の父は、これは襟裳岬にいると考えられるネズミの神に対し、火の神様を通して、我が家にいるネズミが、アイヌが大切にしているものを、このように齧ったと伝えた。
これはエルムノッド(襟裳岬)にいるネズミの総元締め役が、下々のネズミに対して、アイヌに悪さをしないようにという指令が行きわたっていない証拠である。だから、物を齧ったネズミを罰するとともに、これからは絶対にアイヌが大事にしているものを齧らないように言ってくれという文句を、朗々と詠った。
萱野茂が、「山育ちの父が、ネズミの総元締めは襟裳岬にいると信じていた」というその訳を知り、納得したのは、茂が大人になって、襟裳岬に立って沖を見た時である。
岬の先に立ち、沖を見ると、ネズミの群れが陸を目指して走って来るように見えるのである。
それで、父が先程の文句をつけたのである。
その後、ネズミが齧るのを止めたかどうかは、分からない。
ただ私は、総元締めの神に「あなた、ちゃんと監督と指導をしなさい。行き届かないのは貴方がだらしないからだ」という考え方が、大変面白いと思った。
■偉大なり! 町名をも変えた歌の力
私は歌の文句に惹かれて、襟裳岬に来た。歌で有名にならなかったら、ここには来なかっただろう。
この地を有名にし、64年続いた町名までをも変えたのが、歌である。
多くの人は、♪「襟裳岬」といえば、森進一の歌う「北の街ではもう・・・」と始まる曲を思い出し、口ずさむ方が多いであろう。
だが、同名異曲で島倉千代子の「襟裳岬」が、1961年に発売され、その曲の大ヒットにより、当地の町名が「幌泉町」から、→「えりも町」変わったのである。
1961年に発売された島倉千代子の「襟裳岬」は、高校3年生を作った「作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤実」コンビの楽曲である。
私は、この3人は大好きである。
島倉の「襟裳岬」は、♪「風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ 誰か私をよんでるよううな・・・」で始まるが、ここに立った人の心境と情景を、とても上手に現わしていると思う。
一方、島倉の「襟裳岬」から13年後の1974年に、今度は「作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎」の襟裳岬を森進一が歌い、これまた大ヒットした。曲名に著作権はないので、同名異曲は可能なのである。
こちらも、襟裳岬と人の心境を、素朴に描き出していると思う。
Wikipediaによれば、次のような後日譚がある。
作詞家の岡本おさみは、襟裳岬へ旅行した時、漁師に「いいとこですね」と話しかけたら、北海道の人特有の素朴な言い方で「なんもないんだー」という答えが返って来た。
そこで「何もないの、いいじゃないですか」と言ったら「なんもないんだ。焚火してるしか、しょうがないんだ」とまた素朴な答えが返って来た。
彼が実際に襟裳を訪れた時、大変寒く、民家で「何もないですが、お茶でもいかがですか?」と温かくもてなしされた。このことに感動して、作詞したとのことだ。
そして、森進一の襟裳岬が発売され、ヒットした1974年の第25回NHK紅白歌合戦で、歴史に残ることが起きた。
白組のトリ(最後)が森進一、紅組のトリが島倉千代子で、共に同名異曲の「襟裳岬」を熱唱したのである。
当初、島倉は紅白では未歌唱のデビュー曲「この世の花」を歌う予定だったが、森に対抗するため、襟裳岬に変更したのである。
今、襟裳岬には、島倉の「襟裳岬」と、森の「襟裳岬」の歌碑が並んで建っている。
ともに好きな曲で、両方とも口ずさむことが出来る。
襟裳岬にたった一軒あるお土産屋に入ると、その2曲が交互に流れていた。
今回のエピソード12をもって、北海道滞在記2024は終わりです。お読みいただき、有難うございました。